2021年8月15日(日)-ルカによる福音書12章51節

”「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」”

 主イエス・キリストは、ご自分が地上に「分裂」をもたらすために来たと言われました。主イエスが地上に「争い」をもたらすと言っておられるのではありません。そうではなくて、「平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレミヤ書6章14節)人々の目を覚まさせ、欺瞞を打ち砕き、正しい裁きをもたらすと言っておられるのです。それは、不正や不公平がまかり通っているにもかかわらず、自分の身のまわりの平和にしか目を向けず、現実を直視することなく、他者とのかかわりをもとうとしない私たちに対する神さまのみこころを示す言葉です。主イエス・キリストは、この世界に神さまの正義と平和の「火」(49節)が燃えていることを願っておられます。しかし、そのために主イエスは、「受けねばならない洗礼」(50節)である十字架のお苦しみを受けられました。十字架の苦しみを忍ばれることによって神さまの正義と平和が貫かれ、神さまと人との平和が実現するからです。主の十字架による神さまと人との和解こそは、あらゆる分裂を越えるキリストの平和です。(T)

2021年8月8日(日)-エゼキエル書18章32節

”「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。」”

 戦争やSNSでの誹謗中傷等は、常に自分を善の側に置いて、悪は外に存在し、罪のない自分を攻めてくるという被害者性と、自分は正義なのだから悪をゆるしてはいけないという意識しかありません。ここに決定的にかけているものは加害者性、当事者意識です。ダニエルは、「先祖が悪い、民が悪い」とは思わず、神さまのみ前で、「私が罪を犯し、あなたの信頼を裏切りました」と認め、今までの自分が犯したことをこれからつぐなって生きるような、そういう心を抱きました。「新しい心、新しい霊」を造り出すとは、まさに主から受けた恩(十字架による罪の赦し)に対して自分自身を惜しまず主に献げる、主イエスの心と主イエスの霊をもって生きる者となることです。赦された罪人こそが平和を造り出す者となれるのではないでしょうか。(M)

2021年8月1日(日)-マタイによる福音書5章9節

”平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。”

 主イエスキリストは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節)と、神の国の福音の宣教を始められました。その後、弟子たちを召し、諸会堂で教え、病人をいやされ、そして、群衆に向かって天の国(=神の国)に生きる幸いを教えられました。それが、「山上の説教」です。主イエスは神の国の到来に向かって歩んでいる私たちに対して、神さまのご支配とお導きに従って生きる道を、この「山上の説教」において教えています。その中で、「平和を実現する」(9節)とは、私たちがこの世界において平和な国を打ち立てるということではありません。そうではなく、神の国の到来に向けて、今、私たちが生き、生活をしているそれぞれの場で、神さまの平和を実現する務めを担い続けることです。平和の主イエス・キリストに従い、主が再びこの世界に来られる時まで「愛のわざ」(教団信仰告白)に励むことです。(T)

2021年7月25日(日)-ルカによる福音書19章13節

”『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい。』”

 主人(イエス)は僕たちに1ムナ(100日分の賃金)を預けて、王位を授かるために出かけて行かれました。私たちの救いは、キリストが再び来られる時、終末における最後の審判が行われる時に完成します。その時に、「あなたは受けた愛、喜びの知らせをどれだけの人に分かち合いましたか」と問われるでしょう。私たちに与えられた力と恵みと愛は、私たちにとって有益なものであり、私たちはその力を用いる、その賜物をも併せていただいております。すべてをご存じでいてくださる主に、「よい忠実な僕よ、よくやった」と言ってもらえるような信仰を育みながら、希望と勇気と平和を求める思いを抱いてここから遣わされていきたい。(M)

2021年7月18日(日)-使徒言行録4章8節、12節

”ペトロは聖霊に満たされて言った。「・・・わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 エルサレムの人々の前で説教し(2章)、神殿で説教した(3章)ペトロは、今、議会で取り調べを受けています。ペトロは、主イエスが進まれた道のりをそのままたどっています。そのようにしてペトロは、主イエスに従い、主のみ足の跡を歩んでいます。そして、その議会の場で、「無学な普通の人である」(13節)ペトロとヨハネは、主イエス・キリストの名こそが真実の救いの名であることを、「大胆な態度」(同)で証ししています。かつて主イエスは弟子たちに、「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」(ルカによる福音書12章11節~12節)と言われた通りに、「聖霊に満たされて」(8節)語っています。(T)

2021年7月11日(日)-使徒言行録3章16節

”あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。”

 生まれながら足の不自由な男の人は、主イエスの名によって立ち上がり、神さまを賛美しながら、ペトロとヨハネと一緒に神殿の境内に入って行きました。その男の人を見て民衆は非常に驚きました。民衆が一斉に集まって来るのを見たペトロは、神殿で説教をしました。かつて、主イエスは神殿の境内で、神殿で献げるためにお金を両替したり、犠牲として捧げる鳩を売っていた人々を追い払われました(マタイによる福音書21章12節~14節)。そのようにして主イエスは、神殿が「祈りの家」であることを示されたのです。今、その神殿の境内で、ペトロは、そのように神殿を清められ、十字架につけられた主イエスこそがメシア(救い主)であられることを力強く証ししています。(T)

2021年7月4日(日)-使徒言行録3章6節

”「・・・ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」”

 生まれながら足の不自由な人が、神殿の門のそばに置かれていました。彼は、「今日はどれくらい施しをもらえるだろうか。せめて今日一日生きて行けるだけのお金があれば・・・」と思っていたかもしれません。しかし、彼に目をとめたペトロは、彼に、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と告げ、彼は立ち上がりました。神さまがなさることは私たちの思いや願いを超えています。足が不自由であった人は、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、ペトロたちと一緒に神殿の境内に入って行きました。(T)

2021年6月27日(日)-使徒言行録2章44節~45節

”信者たちは皆一つになって、すべての者を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。”

 聖霊なる神さまが弟子たちに降られたことによって誕生した教会は、心を一つにして礼拝をささげ、聖礼典(洗礼と聖餐)を執行し、一緒に食事をする交わりをもちました。それは、キリスト者の歩みが、神さまを礼拝することと、日常の生活において神さまからの恵みを分け合うことであることを表しています。特に、日常の生活においては、持っている者が持っていない者に与えるのではなく、「皆が・・・分け合った」のです。神さまからの豊かな恵みは、私たちがそれを分け合って生きるために与えられているものです。神さまからの恵みを心から感謝し、喜んで分け合ってまいりましょう。(T)

2021年6月20日(日)-使徒言行録2章39節

”この約束は・・・わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。”

 ペトロの説教によって自らの罪を認め、悔い改めた人々に対してペトロは、「イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38節)と語りました。ペトロは、これは神さまの約束であり、神さまが招いてくださっている者であればだれにでも与えられているものなのだと語っています。ペトロが語った主イエス・キリストの十字架の死と死からの復活の福音は、神さまの裁きの言葉ではなく、招きの言葉であるのです。神さまは、自らの罪を悔い改め、その福音を受け入れる者の罪を赦し、神さまご自身のもとへと招いておられます。そして、主を信じる群れ(教会)は、その一人ひとりを招き、彼らは仲間に加わりました。神さまのお働きは何とすばらしいことでしょう!(T)

2021年6月13日(日)-ルツ記1章16節

”「あなたの神はわたしの神。」”

 不安な状況がいつ終わるか分からない時、良い決断ができれば新しいスタートを切り、行く方向が生まれます。ダビデの家系を表すために書かれたファミリーヒストリーであるルツ記。ルツはモアブ人でありましたが、義理の母についてベツレヘムへ帰り、落ち穂拾いで伴侶に出会い結婚し、メシアの系図につながっていきます。ルツをはじめメシアの系図の中にでてくる4人の女性たちに共通していることは、とおった苦難の中に神さまを信じて豊かな神さまの愛と導きを見い出したということです。そして神さまの恵みを受け取って、信仰によって行動し、環境や状況を超えた自由と喜びの心で、主の慈しみが、さらに大きな地平に向かっていく未来を望むことができたことです。私たちも良い決断をしつつ、今週も歩みを導かれたいと願います。(M)

2021年6月6日(日)-使徒言行録2章36節

”「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、また、メシアとなさったのです。」”

 ペトロは立ち上がって語りかけました。最初は「イスラエルの人たち」(22節)、次に「あなたがたは」(23節)、そして「兄弟たち」

(29節)とペトロは呼びかけました。ペトロは、「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」と言っていますが、それはユダヤ人たちを責めているのではなく、彼らの罪を明らかにすると共に、そのあなたがたのためにこそ主の十字架と復活の救いであることを伝えようとしているのです。ペトロ自身もユダヤ人であり、主イエスを裏切ってしまった一人です。ペトロは、そのような自分自身にこそ与えられた救いの恵みを、同胞の兄弟たちに宣べ伝えているのです。(T)

2021年5月30日(日)-使徒言行録2章17節

”「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。・・・」”

 神の霊が注がれてペトロは立ち上がりました。主イエスを裏切ってしまった自らの罪の重荷のゆえにうずくまっていたペトロが立ち上がったのです。神の霊を注がれてペトロは声を張り上げて話し始めました。ユダヤ人たちを恐れて部屋に閉じこもり、身をひそめていたペトロが、キリストの十字架と復活の福音を大胆に話し始めたのです。神の霊を注がれてペトロはヨエルの預言により神の救いを説き明かしました。主イエスの福音をなかなか理解できなかったペトロが、確信をもって福音を宣べ伝える者とされたのです。(T)

2021年5月23日(日)-使徒言行録2章4節

”すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。”

 主イエス・キリストが約束された聖霊が、使徒たちに降りました。クリスマスは、キリストが私たちの世界にお生まれくださったことを証ししています。イースターは、主が十字架の上で死なれて私たちの罪を贖ってくださったこと、そして、死から復活されることによって死の力を滅ぼしてくださったことを証ししています。それらは、主イエス・キリストを通して現された神さまのみわざです。神さまは、今、この時も、同じ聖霊のお働きによって、私たちを通してみわざを現しておられます。(T)

2021年5月16日(日)-使徒言行録1章21節~22節

"「・・・主イエスがわたしたちと共に生活されていた間・・・いつも一緒にいた者の中からだれか一人が・・・主の復活の証人になるべきです。」”

 主イエスが召された12弟子の一人が欠けてしまったため、使徒たちはだれか一人を選び、準備を整えて、主が約束された時(ペンテコステ)を待つことにしました。その選びで必要とされたのが、主イエスと共にいつも一緒にいた者ということでした。「証人」とは、自分が直接見聞きした事実や経験した出来事を述べる人だからです。けれども、その証人は「主の復活の証人」と呼ばれています。つまり、主の十字架と復活の出来事の意味を証しする者ということです。こうしてマティアが使徒の仲間に加えられることになりました。(T)

2021年5月9日(日)-マルコによる福音書5章34節

”・・・娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。・・・」”

 イエスさまのおっしゃる信仰というのは、自分のゆがんだ心、自分からの疎外、まわりからの疎外、そういう現実をありのままに語れるということではないかと思います。神さまへの信頼の扉が開くことで、自分への信頼も人への信頼も回復していく。人間として解放され、魂に健康が戻ってくるのです。神さまの御前でありのままに正直に生きること、そして、自分とも人とも正直に向き合っていくことを大切にしていくことで、教会は平和な社会を形成していくベースとなり得るのではないか。そうあり続けられますように祈っています。(M)

2021年5月2日(日)-詩編119編105節

”あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。”

 神さまの御言葉は、私たちが人生の暗闇の中を歩む時、その足元を照らし、導く光です。不安や恐れの闇、悲しみや嘆きの闇、苦悩や生きづまりの闇・・・私たちは日々、さまざまな闇の中を歩まなければなりません。そして、聖書は、私たちが抱えている最大の闇である罪の闇を指摘しています。コロナ禍で悩む中にあって、この一年も、神さまの御言葉そのものであられ、まことの光にして、まことの命に至る道であられる主イエス・キリストに従って歩んでまいりましょう。(T)

2021年4月25日(日)-コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章58節

”主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。”

 私たちの日常の中でイエスさまは復活していくのだと思います。イエスさまがこの時何を考え、何を思い、どう生きられたか、そのことを自らのこととして復活の命を生きていけるのなら、私たちの愛する亡くなった方たちとも、日常の中で再会できるのだと思います。ひとつひとつの出会いを心にとめ、そのことの意味を問いつつ、今日この時をこの人たちと共に生きる。この人たちと出会った事実、現実を引き受けながら、その中で自分はどう生きるのかということを考える。これが命を引き継ぐ、復活の命を生きるということなのだろうというふうに思います。(M)

2021年4月11日(日)-使徒言行録1章3節

”イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現われ、神の国について話された。”

 復活の主イエスにお会いした女性たちは、「イエスは生きておられる」と証ししました。それは、十字架の上で死なれた主イエスが死から復活されたということと共に、復活の主が今も生きておられることを意味しています。主イエス・キリストは、死んだと思ったけれども息を吹き返したのでも、人としての命が長らえたというのでもありません。キリストは、今この時も、そして、これからも生きておられ、いつも私たちと共にいてくださいます。(T)

2021年4月4日(日)-マタイによる福音書28章10節

”「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」”

 復活の主イエスと再会した弟子たちは、もう一度主の弟子としての歩みをやり直したのではなく、それまでとは全く違う新たな歩みへと導かれました。私たちも、復活の主イエスと出会って人生をやり直すのではなく、主に結ばれた新しい歩みへと導かれます。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節)

 主の復活ハレルヤ!(T)

2021年3月28日(日)-ルカによる福音書23章34節

”イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」”

 主イエスは「ペトロの信仰がなくならないように祈っているよ」(ルカによる福音書22章31節)と伝えられた直後にペトロの離反を予告され、やがて、現実となりました(同22章54節~)。その人間の現実、神の御子を十字架で殺す人たちを「自分が何をしているのか知らない存在」と主イエスは承知していて、それでも「私はあなたのために祈る。あなたを赦す。あなたを愛する」と私たちに向き合ってくださることは、本当にスゴイことだと心ゆさぶられます。インマヌエル「神は我々と共におられる」(マタイによる福音書1章23節)の世界は裏切られることがあってもつながり続ける。時に不信感をもつことがあってもお互いがつながっていく。人が人を信じつなぎとめていく努力をあきらめてはいけないと思います。(M)

2021年3月21日(日)-マタイによる福音書20章28節

”人の子が・・・多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た”

 主イエスが、三度にわたってご自分の死と復活を予告された(マタイによる福音書16章21節、17章22節~23節、20章17節~19節)にもかかわらず、主の弟子たちはそのことを理解することができず、弟子の中で誰が一番偉いかということに気を奪われていました。主イエスはこの時、ご自分のご受難と死が、弟子たちをはじめとする人間の罪の贖いのための死であることをはっきりと話されました。主は、ただ主のみが成し遂げることのできる十字架の救いの道へと進んで行かれました。(T)

2021年3月14日(日)-マタイによる福音書17章5節

”すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。”

 カリラヤ地域を中心とした主イエスの宣教活動は、主の「山上の変貌(へんぼう)」の出来事を分水嶺(「ぶんすいれい」物事の方向性が決まる分かれ目)として、エルサレムでの主の十字架の死と復活へと向かいます。主イエスが洗礼者ヨハネより洗礼を受け、宣教活動を始められる時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神さまのみ声が響きました(マタイによる福音書3章17節)。今、十字架の道へと進もうとされるこの時、同じ神さまのみ声が響いています。(T)

2021年2月28日(日)-マタイによる福音書12章28節

”イエスは・・・言われた。「・・・わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。・・・」”

 主イエス・キリストによって神さまの偉大なみわざが示されました。しかし、信仰に熱心であったはずのファリサイ派の人々は、それを悪霊の力によるものであると決めつけてしまいました。自分たちが思い描くような神さまのみわざのあり方と

違っていたからでしょう。主イエスは、それは神さまのご支配(=神の国)そのものをも否定することであると言われました。主イエスのご存在こそ、神さまのご支配がこの世にあることを意味しており、主のお働きこそはそのことを証ししているからです。主イエスのご存在とそのお働きを拒むことは、神さまのご支配を拒んでいるということです。(T)

2021年2月21日(日)-エフェソの信徒への手紙6章22節

”彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。”

 エフェソの信徒への手紙は、ティキコを派遣するとのことと、平和と愛と恵みを祈る言葉を持って閉じられます。ティキコはアジア州の出身で、パウロがエルサレムに上る最後の旅の同伴者でした(使徒言行録20章4節)。また、テモテへの手紙においてティキコは、パウロの使者としてエフェソに遣わされています(テモテへの手紙Ⅱ4章12節)。初代の教会においては、交通が不便な中にありながらも、このように教会間における人的交流が盛んになされていたことを知らされます。つまり、キリスト教会は、その教会だけで立っているのではなく、主のお導きのもとに、他の教会と共に立つものであるということです。お互いに祈り合い、人的な交流をもつことによってそれぞれの教会が励まされ、それぞれの地における福音伝道の働きが支えられたのです。(T)

2021年2月14日(日)-マタイによる福音書14章27節

”イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」”

 私たちはキリストのいない所で試練の海の中に送り出されることがあります。自分の力の限界を思い知らされる経験の中で、その中心には救い主イエス・キリストが立っておられ、「安心しなさい」と声をかけてくださる。その時ペトロは「私も水の上を歩かせてください」と頼んで、歩き始めますが、本当はイエス・キリストへの道、命に向かっていく道を私たちは歩けません。ただ「来なさい」というイエス・キリストの救い、赦しがあるから私たちは信仰の道を歩いて行くことができます。私が右手で主イエスの手を握っているなら、左手を伸ばしておぼれそうな誰かの手を握りたい。そしてぐいっと引っ張って主イエスの手に渡したい。私たちの使命であり喜びである福音宣教というのはそういうことではないでしょうか。(M)

2021年2月7日(日)-エフェソの信徒への手紙6章20節

”わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。”

 「使者」とは「特命全権大使」(国を代表して他の国に赴く人。アンバサダー)のことです。福音を宣べ伝える者は皆、神の国の到来という喜びの知らせを伝える特命を与えられ、そのために全権が委任されている大使です。福音を宣べ伝える者は、神さまがイエス・キリストによって示してくださったまことの愛と恵みを宣べ伝えますが、どんなにすぐれた人物であっても、教会の祈りの支えなくしてはその働きを全うすることはできません。福音を宣べ伝える者は祈りを必要としているのです。そして、その者のために祈る者は、福音宣教のわざに共に加わっています。病に向き合う友を覚えて祈るということは、その者と共に病に向き合っているということです。(T)

2021年1月31日(日)-エフェソの信徒への手紙6章12節

”わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。”

 キリスト者の歩みには ”信仰の戦い” があります。それは、キリスト教信仰に反対している人やキリスト教信仰をおびやかす者との戦いということではありません。その戦いとは、神さまとキリスト教との関係を断ち切ろうとする悪との戦いです。私たちの内面の深いところをゆさぶり、私たちを怖れと不安の虜(とりこ)とし、神さまから離れさせようとする力との戦いです。キリスト者は、真理、正義、平和の福音、信仰、救い、神の言葉、霊の助け、祈りを「神の武具」として身に着けて、悪の力に立ち向かいます。(T)

2021年1月24日(日)-エフェソの信徒への手紙6章6節~7節

”キリストの奴隷として、心から神の御心を行ない、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい”

 初代の教会に連なる者たちの中には、奴隷であった者もいれば、主人であった者もいました。そして、社会生活ではそのような身分の差があったにも関わらず、教会ではその両者に、「同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらない」(9節)とのことが語られていたのです。今日の私たちの社会において奴隷の身分である人はいなくても、私たちは、他者に仕えなければならなかったり、組織の一員としてそのルールや決まりに従わなければならなかったりということを誰もが経験しているのではないでしょうか。そのような中で聖書は私たちに、「人にではなく、主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」と勧めています。私たち一人ひとりに仕えてくださった神の御子イエス・キリストに従い、喜んで神さまと隣人に仕える者でありたいと思います。(T)

2021年1月17日(日)-エフェソの信徒への手紙6章2節~3節

”「父と母を敬いなさい。」・・・「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。”

 「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(エフェソの信徒への手紙5章21節)との主題のもとに二番目に述べられているのは、子どもと親に対しての勧めの言葉です。ここでは、旧約聖書の「十戒」の言葉が引用されています(申命記5章16節、出エジプト記20章12節)。つまり、ここでは一般的な意味での子どもと親の関係についての勧めを述べているのではなく、子どもと親に対して、神さまとの深い結び付きにおいて生きることを勧めているということです。ここでは、父なる神さまの愛の中で、子どもも親も共に神さまのみ言葉に聞き従って歩むこと、「全ての敬虔な者の母」である教会(カルヴアン)において、信仰の道を共に歩むことを教えています。神さまの言葉(十戒)は人間がまことの幸福へと至る道しるべであり、幸福の約束です。(T)

2021年1月10日(日)-マタイによる福音書20章34節

”イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。”

 新しい年を迎え、主イエスは「あなたは何をしてほしいのか」と問われます。私たちは私の思い、願い、計画、夢を申し上げます。同時に主イエスは「あなたは何をすべき人間なのか、あなたの使命は何か」と私たちに問われます。主イエスに従うことは、私たちの夢を超えて神さまの深い御心の成就という世界に入っていくこと、そして私たちの人生の目的を最も深い所で知るようになることだと思います。結果的には目が見えないこと以上に辛い旅を彼ら(二人の盲人)も私たちも選ぶことになるやもしれません。しかし神さまのご計画が進んでいくことは、私たちにとっても「うれしい、しあわせ、心づよい」ことなのではないでしょうか。そのような2021年となりますように。(M)

2021年1月3日(日)ーエフェソの信徒への手紙5章21節

”キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。”

 「仕え合う」と書いて、「仕合せ(=幸せ)」と読むことができます。これは言葉の成り立ちからすると偶然のことのようですが、なかなか意味深いと思います。「仕え合う」との言葉は、元々は「下に配置する」との意味があります。主イエス・キリストへの畏れをもって、私たちが相手の下に配置されている者として、互いに仕え合う道を歩んでまいりたいと思います。(T)

2020年12月27日(日)-ヨハネの黙示録12章11節~12節

”兄弟たちは、子羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。・・・このゆえに、もろもろの天と、その中に住む者たちよ、喜べ”

 今目の前で地上に起こっている大迫害、この多くの苦しみと殺されるという体験はどこから来ているのか、ということを語ろうとして、ヨハネは、「もうすでに天では戦いの勝負がついていて、悪魔は負けて地上に落とされて今あばれているけれども、もうその命は風前の灯で、やがて滅びる。だから、希望は確定しているのだ」と言って、当時苦しむ人たちを励まし慰めました。私とは何の関係もなく、希望は2000年前のクリスマスの時から始まっていて、そのすでにある希望から現実をとらえなおす、そういう態度が信仰なのではないかと思います。来る2021年も、希望から現実を見る信仰が与えられるように、主の日毎の礼拝を続けていきましょう。(M)

2020年11月29日(日)-エフェソの信徒への手紙4章24節

”神にかたどって造られた新しい人を身に着け”

 「新しい人」とある「新しさ」とは、時間的な新しさではなく、「神にかたどって創造された」(創世記1章27節)人間としての本来的な姿に立ち帰るという質的な新しさのことです。私たちは、主イエス・キリストに結ばれて新しい人とされる恵みを与えられております。主イエスはその恵みを私たち一人ひとりに示し、届けるためにこの世界にお生まれになりました。(T)

2020年11月8日(日)-マルコによる福音書11章22節~23節

”イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。・・・」”

 11章12~14節の続きです。私たちは何のために奇跡をおこすのか、何のために信仰が必要なのか、もっと言うと誰のために信仰を持つのか、信じて疑わない強い信仰を何のために身につけるのかが問われているように思います。信仰には目的と動機があり、自分と他人の命の事柄に直結しています。その人に対する愛が信じて疑わないほど真剣で、絶対こうでないと困るという動機があり、なんとかしたいっていう思いを信じて持つこと、そこに奇跡がおこるのだとイエスさまは励ましてくださっています。(M)

2020年11月1日(日)-エフェソの信徒への手紙3章19節

”神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。”

 私たちが神さまの豊かさを知るためには、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」(18節)を理解することが必要です。それは、「私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超え」(19節)るものです。私たちが持っているどのようなものさしやはかりも役に立ちません。私たちは神さまの豊かな恵みを、ただ感謝をもっていただき、神さまにご栄光を帰するほかはありません。神さまは私たちの内に住まわれる主イエス・キリストによって私たちを導いてくださり、私たちを愛にねざし、しっかりと立つ者としてくださいます(17節)。(T)

2020年10月25日(日)-マルコによる福音書12章10節~11節

"「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」”

 聖書の中には、迷わない99匹のためよりもむしろ迷い出た1匹、つまり小さい者のひとりを神さまは喜ばれる(マタイ18章10~14節)とありますし、最も小さい者との関係が神さまとの関係、世界との関係を位置づけていく(マタイ25章34節以下)とあります。そして、家を建てる者に捨てられた主イエスが復活されて隅の親石となったのは、捨てられた者たちが新たな役割を果たすことの象徴だと語られます。世の無に等しい人に隅の親石としての役割が与えられることは、私たちには不思議に見えますが、この聖書のメッセージは、今の私たちの希望です。最も苦しんでいる人たちが持っているまなざし、世界、特権についてしっかりと学んでいきたいと思います。(M)

2020年10月18日(日)-詩編113編1節

”ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ 主の御名を賛美せよ。”

 主なる神さまのみ前で、人々は互いに声をかけあって神さまを賛美しました。神さまに賛美の歌を歌おうというのではなく、神さまを賛美するということが、そのまま歌となっていたのです。神さまの恵みを知った者は神さまを賛美せずにはいられないのです。人々によって賛美される神さまは、「御座を高く置き なお、低く下って天と地を御覧になる」お方です。この低く下られる神さまこそは、この世に来られ、私たちと共に歩み、私たちの罪を担って十字架で死なれ、死から復活された主イエス・キリストです。(T)

2020年10月4日(日)-エフェソの信徒への手紙2章19節~20節

”あなたがたは・・・・聖なる民に属する者、神の家族であり、信徒や預言者という土台の上に建てられています。”

 神さまは、キリストの十字架の救いによって、私たちを「新しい人に造り上げて」くださいました(エフェソ2章15節)。キリスト者は、新しく造られた者として、一つの霊に結ばれ、使徒や預言者といった信仰者たちを土台とし、「神の住まい」として共に建てられて行きます。世の嵐や荒波の中を通る時も、生涯、このたしかな土台の上に立ち続ける信仰者として歩んでまいりましょう。(T)

2020年9月27日(日)-エフェソの信徒への手紙2章10節

”わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。”

 神さまは何の目的もなく私たちを造られたわけではありません。私たち一人ひとりをかけがえのない存在としてお造りくださった神さまは、この世界において、神さまのみこころを実現する者として一人ひとりをお造りくださいました。私たち自身の存在も、その業(働き)の実りも神さまからの賜物です。信仰の歩みは私たちの自己実現に向かうのではなく、神さまの壮大で美しい天地創造のお働きの実現に与かる道へと向かうものです。(T)

2020年9月20日(日)-エフェソの信徒への手紙2章4節~6節

”憐み豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし・・・・・共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。”

 神さまは、自らの罪のゆえに神さまから遠く離れていた私たちをこの上なく愛してくださり、神さまのひとり子イエス・キリストとの出会いを与え、キリストの十字架の上での死という、これ以上ない深い愛によって私たちを罪から救ってくださいました。さらに神さまは、私たちにキリストと共に復活する希望を与え、神さまのみもとへと招いてくださいました。それは何ものによっても決して奪われることのない恵みです。キリスト者とは、”命から死へ”ではなく、”(罪の)死から(復活の)命へ”と導かれた者です。(T)

2020年9月13日(日)-出エジプト記13章21節

”主は彼らに先立って進み・・・・・彼らは昼も夜も行進することができた。”

 ヨセフは数奇な人生をたどって、ついにエジプトの大臣となりました(創世記37~50章「ヨセフ物語」)。ヨセフは自らの死に際して、自分をエジプトの地ではなく、神さまが与えてくださる約束の地に葬ることを言い残しました(創世記50:25)。その後、400年もの時を経て、モーセはヨセフの骨を携え(出エジプト記13:19)、奴隷とされていたイスラエルの民を率いて、神さまが与えてくださる約束の地を目指してエジプトを脱出しました。ヨセフの骨は、その神さまから与えられた約束の地に埋葬されました(ヨシュア記24:32)。実に壮大なスケールの神さまのお導きです。その神さまは、今も私たちに先立って進み、一人ひとりに恵みと導きを与えていてくださいます。(T)

2020年9月6日(日)ーマルコによる福音書9章29節

”イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。”

 今日の物語の中でいつだれが祈ったのでしょうか。父親も弟子たちも祈ったけれども悪霊は出て行きませんでした。それでは主イエスが言われる祈りとは何のことでしょうか。本当に言わなければならないことが言えなくなる。本当に聞かなければならないことが聞こえなくなっている時代の中で、主イエスは父親と何度も会話を重ねながら「わたしをお助けください」という言葉を引き出させました。この父親の言葉こそ祈りではないでしょうか。自分に課題があるとは考えられない人間が集まって築いていく社会は混乱や矛盾や不信を生み、相互に人を傷つけていきます。主イエスが表現された「不信仰な時代」、とても厳しい時代だからこそ、私たち一人ひとりが神さまに向かって「私を助けてください」と叫んでいく、そのことがこの世界を変えていく力になっていくのではないかと思います。(M)

2020年8月30日(日)ーエフェソの信徒への手紙1章23節

”教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。”

 教会は「キリストの体」です。それは教会の存在や活動のどの場面においても、主イエス・キリストのお姿を見ることができるということです。また、教会は、この世にあって、神さまの恵みが満ちている、神の国を証しする存在です。それは、神の国はこのような様子(イメージ)であるということを示しているというのではなく、神さまの愛によるお守りとお導きが、そのすみずみにまで行き渡っている場であるということです。キリストこそは、今もこれからも、世界のいずこにおいても主であられるお方です。(T)

2020年8月23日(日)ーエフェソの信徒への手紙1章17節~18節

”どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、真美を深く知ることがきるようにし、心の目を開いてくださるように。”

 「神を深く知る」とは、神さまについての豊富な知識をもつことではありません。宗教改革者カルヴァンは、人生の主な目的は「神を知ること」であると述べ、さらに、神についての真の正しい知識とは、「神をあがめる目的で神を知る」ことであると述べています(『ジュネーヴ教会信仰問答』より)。「主イエス・キリスト」・「御父(父なる神)」・「霊(聖霊)」なる三位一体の神さまは、私たちが神さまを深く知ることができるようにと、その全能の御力をもって私たち一人ひとりを主の日の礼拝へと招いておられます。(T)

2020年8月16日(日)ーエフェソの信徒への手紙1章10節

”こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。”

 天にあるものも地にあるものも、あらゆるものが主イエス・キリストのもとに一つとされること、それが神さまの救いのみ業(お働き)の完成であると言われています。私たちは神さまの愛のみこころの内に、神さまを愛し、互いに愛し合う存在として

作られました。しかし、私たちの世界においては、人と人とが共に生きることができないでいる現実があります。私たち一人ひとりは、隣人と共に生きる者として救われなければならない存在です。その救いの完成とは、キリストのもとに一つとされること、つまり、この世のすべての「支配、権威、勢力、主権」(エフェソの信徒への手紙1章21節)がキリストのもとに位置付けられ、生かされるということです。私たちもまた、日々の歩みにおいてキリストのもとに一つとされ、生かされて歩んでまいりましょう。(T)

2020年8月9日(日)-イザヤ書2章4節

”彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。”

 平和を目指しながら、あらゆる戦い、あらゆる暴力を排除すべきだと考えながら、それをさまたげている一番の敵は私たち自身の中にあると言わざるを得ません。自分の中にいる最も恐るべき敵、罪をあがなうことができるのは神さまをおいて他にありません。私たちのうちにある剣を鋤とし、槍を鎌とすることが、神さまのみおできになります。だからこそ私たちは、神さまと共に歩むことを切に願い求め続けたいと思います。すべての人が、本当に心おだやかに笑顔で過ごせる日々がくるように、こんな私たちをも、真実な愛と平和を築き上げる者としてくださるように、そのように信じて歩み続けたいと思います。

                                                         (M)

2020年8月2日(日)-エフェソの信徒への手紙1章14節

”こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。”

 私たちは、神さまの御心により、主イエス・キリストの十字架の死によって罪が贖われ、神の子とされます。そして、エフェソの信徒への手紙は、神の子とされた私たちが神さまのご栄光をたたえる者とされることが、天地を造られた神さまのご計画であることを証ししています。この手紙においては、神さまに造られた存在である私たち人間には想像もつかない、深く、壮大な神さまの「秘められた計画」(9節)が、キリストにおいて明らかにされていることを伝えています。私たちは神さまの尊いご計画の中に生かされ、用いられる者です。「ああ、神の富と知識のなんと深いことか」(ローマの信徒への手紙11章33節)。

主なる神さまを心からほめたたえましょう。(T)

2020年7月26日(日)-ガラテヤの信徒への手紙6章14節

”しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。”

 私たちはとにかく自分を誇りたがります。自分自身を、あるいは自分の働きや得たものを誇りたがります。逆に、自分の存在が軽んじられたり、自分のしたことが評価されなかったりすると、とたんに気分を害し、怒りを覚えることもあります。パウロは決して、お互いに謙遜で、広い心をもって過ごそうと言っているのではありません。私たちの誇りが、いや、私たち自身が、キリストの十字架によって葬り去られていること、キリスト者は、キリストの十字架の救いによって新しく創造された者であることを語るのです。(T)

2020年7月19日(日)-ガラテヤの信徒への手紙6章2節、5節

”互いに重荷を担いなさい。・・・・・めいめいが、自分の重荷を担うべきです。”

 キリストが私たちの罪の重荷を担ってくださったように、私たちも互いに重荷を担うことが勧められています。この勧めのポイントは、キリストとともにあること、キリストが共にいてくださることの自覚の中で生活をするということであり、それこそが、「”霊”に導かれて生きている」ということであるということです。つまり、私たちは他者と共にいることにおいてこそ(特にそのことを重荷と思う時にこそ!)、本当にキリストが共にいてくださることが必要であり、それが大きな恵みであることを深く知るということです。そのようにして私たちは真実に自分の重荷を担う者とされます。(T)

2020年7月12日(日)-創世記4章7節

”主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。・・・」”

 「神さまは不公平!神さまはひいきをされるのか?」って感じるかもしれません。実は「選びによる神の計画」の前提となっているのは、神さまの側の恵みと人に対する慈しみの心です。ただし、その恵みと慈しみを神さまから受け取る人間の側の備え、姿勢も必要なのです。神さまに献げる行為は恵まれ、祝福されますが、私たちがどういう動機で、どういうふうに愛情をもってそれを行なったかで、その結果を自分が刈り取ることになります。神さまが与えようとされる祝福を、カインは自分の心でストップしてしまいました。「私は神さまに感謝をもってこの献げものをします!この献げものについては誰にも何も批判されない。何を言われてもそんなことは関係ない。私は喜んでこれを主に献げます!」という姿勢が心に祝福をあふれさせます。(M)

2020年7月5日(日)-ガラテヤの信徒への手紙5章16節、22~23節

”霊の導きに従って歩みなさい。・・・霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制です。”

 キリスト者とは、霊(聖書)の導きに従って歩む者のことです。聖霊の導きに従って歩むとは、何か、この世離れした考えでいたり、すべてを達観したような物の見方でいるというこではありません。そうではなく、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制に生きることです。おそらく、これらのことはキリスト者でなくても、誰もが大切にしていることでしょう。しかし、聖書は、聖霊なる神さまがこれらのことを働かせてくださる(実現)のであり、また、これらのことは聖霊の導きによってこそ完成する(結実)ものであると言うのです。私たちの貧弱な愛を、喜びを、平和を、寛容を、親切を、善意を、柔和を、節制を、神さまは、御子イエス・キリストの御力により、私たちを通して真実に働かせてくださるのです。(T)

2020年6月28日(日)-ガラテヤの信徒への手紙5章13節

”あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。”

 私たちは主イエス・キリストを信じる信仰によって、罪の束縛から自由にされました。そして、それだけではなくて、私たちは、「愛によって互いに仕え」る自由へと導かれているのです。「自由を得るために召し出された」というのですから、その召しをいただいたことによる使命があるということです。それが愛によって仕える自由です。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。」(ルター『キリスト者の自由』より)(T)

2020年6月21日(日)-ガラテヤの信徒への手紙5章1節

”この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。”

 神さまが与えてくださる自由に生きる者がキリスト者です。その自由は、私たちが一生懸命に信仰の歩みに励むことによって得ることができるものではありません。そもそも私たちは、罪に捕らわれ、罪の奴隷の状態にあったのです。そのような私たちを罪から救うために、主イエス・キリストは十字架で死んでくださり、私たちの罪を滅ぼしてくださいました。それが、「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」ということの意味です。キリスト者の自由は神さまの約束に根ざしています。そして、律法に従い、律法の契約に生きる者に対しても、また、キリストによって自由の身とされた者に対しても、神さまの深い愛と憐みが与えられています。(T)

2020年6月14日(日)-創世記15章5節

”主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」”

 贖いという言葉の一つの意味は「外に連れ出す」です。心配や恐れや不安、罪や死の力から外に連れ出すことを意味しています。アブラムをそして私たちを愛しておられる神さまはユーモア、愛、勇気、冒険、信頼、単純、献身に満ちておられます。神さまの御心と導きの中で今の現実を受け止めて、自分が何を信じ、祈り、行動していくべきかを思いめぐらしましょう。失望する時も天を仰ぎ、星を見つけ受け取れる星を数えていきましょう。上からの思いと発想を聖霊によっていただけるように精一杯神さまを信じようと決断しましょう。(M)

2020年6月7日(日)ーガラテヤの信徒への手紙4章19節

”キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。”

 「キリストがあなたがたの内に形づくられる」ということは、単にイエス・キリストのイメージを思い描くとか、キリストのお姿を思い浮かべるといったことではなく、その人がキリストと共に生き、共に歩む人として生きることであり、そのように生かされることでしょう。そして、キリストの体である教会の伝道は、そのような一人を産みだす働きであると言ってよいでしょう。キリストに出会うきっかけはさまざまです。パウロは自分の弱さがキリストの福音を告げ知らせるきっかけとなったと言っています。教会がキリストとの出会いの場として、さらに用いられることを願います。(T)

2020年5月31日(日)ー使徒言行録8章35節

”そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。”

 聖霊なる神さまに導かれ、支えられて、主イエスの弟子たちは福音を告げ知らせる働きに赴きました。聖霊なる神さまは私たちの内にあって、み言葉の真理を教え、証しと伝道の生活を導き、慰めと平安を与え、神さまのご栄光を現してくださいます。私たち一人ひとりに福音を告げ知らせるための知恵と力を与え、神さまのみわざの前進のために用いてくださいます。(T)

2020年5月24日(日)-ガラテヤの信徒への手紙 4章9節

”今は神を知っている。いやむしろ神から知られている・・・・”

 キリスト教信仰で大切なことは、私たちが神さまを知っている、信じているということに先立って、神さまが私たちのことを知っていてくださること、神さまが私たちを愛しておられるということを知ることです。この確かな事実を知り、神さまの愛にふれることが、キリスト教信仰が真の自分のものとなる転換点となります。この世における「無力で頼りにならない支配する諸霊」は、そのような神さまの愛の関わりから私たちを遠ざけ、私たちを孤独や孤立へと追い込もうとします。そのようにして、私たちから希望を奪い去ろうとするのです。しかし、神さまは、主イエス・キリストの十字架の死による救いを信じる者に、神さまを「父よ」と呼ぶキリストの霊を送ってくださり、その深い愛と関わりの中に生きるものとしてくださったのです。(T)

2020年5月17日(日)-ガラテヤの信徒への手紙 4章6節

”あなたがたが子であることは、神が、「アッパ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。”

 神さまのひとり子主イエス・キリストの執り成しによって、私たちは神さまの子どもとしての本来の自分自身のあり方を回復しました。私たち一人ひとりが神さまに造られ、愛されている神の子です。そのことは、私たちが神さまに向かって「父よ」

と叫ぶものであるということによって明らかです。それは、聖霊なる神さまが私たち一人ひとりの内にあって働いてくださり神さまを求める思い(信仰)を与えてくださっているということです。私たちのまことの父であられる神さまに導かれて、共に信仰の道を歩んでまいりましょう。(T)

2020年5月10(日)-コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章10節

”なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。”

 救いに入れられた者がこのような姿でいいのか、救いに入れられた者がこのようなことをしていていいのか、その悩みが常に私たちの中にあります。そして私たちは、どうか今の私ではなく、うるわしい私へと導いてくださいと祈ってしまいます。けれども、主イエス・キリストは傷ついたみ姿をもって復活されました。そして、「あなたはあなたのままでいなさい。その弱さに甘んじなさい。自分の人生をそのまま肯定していくことが、あなたにとって最も強いあり方、救われた者の姿である」とおっしゃいました。主イエスの贖いにあずかった者として、弱く、傷ついたままの自分を生きるということを静かに決断していきたいと思います。(M)

2020年5月3日(日)-詩編37編 4節~5a節

”主に自らをゆだねよ 主はあなたの願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。”

 主に自らをゆだねるとは、自分自身を主なる神さまにおまかせすることです。神さまが私の主であられ、私の人生を導いてくださるお方であられることを信じ、告白して、日々を歩むことです。それは、「成り行きに身をまかせる」ことでも、「流れに身をゆだねる」ことでもなく、神さまは私に対して常に最善の道を用意しておられることを信じ、困難の中にあっても神さまのお導きを信頼して歩むことです。自分の知恵と力で切り拓いた道ではなく、主なる神さまが備えてくださる道をまっすぐに歩んでまいりましょう。(T)

2020年4月26日(日)-ルカによる福音書 24章15節

”イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。”

 命が危険にさらされる恐怖からエマオへ逃げていた二人の弟子たちは、復活のイエスに出会い、聖書全体から神の救済史から聞き、「自分たちはこんなにも大きな物語に包まれている!」と心温められ、勇気づけられ、壮大な神の計画に参与するために、迫害の地エルサレムへと戻って行きました。水野源三さんの「喜びの歌をー弱さの中からの讃美」を紹介します。「親しき友人が皆別れていくときも 一人ではない一人ではない 死んでよみがえられた イエス・キリストが話し掛けたもう その耳で聞けよ 頼りなき自分に失望するとき 一人ではない一人ではない 死んでよみがえられたイエス・キリストが 励ましたもうその口でたたえよ」    (M)

2020年4月19日(日)-ガラテヤの信徒への手紙 3章26節

”あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。”

 キリスト者は、洗礼を受けてキリストに結ばれた神の子であると言われています。それは、「キリストを着ているから」(27節)

であると言うのです。キリストを着るとは、あたかもキリストであるかのように振る舞ったり、それらしい装いをするということではなく、キリストによって罪が覆われ、悪から守られて、キリストのみこころのままに生きるということです。「光の武具を身に着け」(ローマの信徒への手紙13章12節)、悪の力に立ち向かう(エフェソの信徒への手紙6章11節)のです。生涯、復活の主の光に照らされ、光の中を歩んでまいりましょう。(T)

2020年4月12日(日)-ペトロの手紙Ⅰ 1章3節

”神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え・・・”

 神さまは豊かな憐みによって、私たちを新しく生まれさせてくださいます。その確かな根拠が、神さまのひとり子イエス・キリストの死からのご復活です。キリストは十字架の死によって私たちの罪を赦し、死を滅ぼしてくださいました。私たちは、そのキリストを私の主と告白し、洗礼を受けることによって、「この死ぬべきものが死なないものを着る」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章54節)ことになるのです。決して失われることのない、しかも、輝きを失うことのない命と希望が与えられるのです。主の復活、ハレルヤ!(T)

2020年3月29日(日)-コリントへの信徒への手紙Ⅱ 4章11節

”わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。”

 「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」とあります。私たちの生涯を通して、私たちの死すべきこの身を通して、主イエス・キリストの輝かしい命が現れるというのです。このことこそがキリスト者における行きる意味、人生の意味です。私たちは神さまによって造られた「土の器」です。普通の器でしたら、欠けてしまったり、ヒビが入ってしまったら捨てられます。器としての役に立たないからです。けれども、神さまに造られたこの「土の器」は違います。主イエス・キリストガ私たちを愛し、十字架で死んでくださったゆえに、その欠けから神さまの光がこぼれ輝くのです。そのヒビから神さまの愛があふれ流れ出るのです。主イエスは、ヒビだらけ、欠けだらけの私たちを愛し、そのままで神さまのみわざのために用いてくださいます。(T)

2020年3月22日(日)-ルカによる福音書 23章34節

”そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」”

 この1週間、自分が最も罪深い状況になったのは、自分が正しいと思い込んだ時ではなかったでしょうか。自分が正しいと思い込む時、私たちの祈りはののしりにさえ変わるのです。その時、主イエスの祈りに、その心に触れられたなら初めて気づけます。この主イエスの祈りはこの私のための祈りだ。この方のこの祈りこそ、本当の人間らしい、人としてのまことの道であったと。そして今しかない、今言うしかない、今私は神と和解しなければならないと気づけるのではないでしょうか。三本の十字架が立つ。私たち犯罪人のただ中にイエス・キリストの十字架が立つ。それが教会です。今日主イエスが私のために祈っていてくださいます。私たちも心からの返事をしたい。「主イエスよ、今日私はあなたと共にいます」と。(M)

2020年3月15日(日)-フィリピの信徒への手紙 4章1節

”このように主によってしっかりと立ちなさい。”

 「主によって」には、主イエス・キリストと結ばれて、主と共に、主の中(うち)にとの意味があります。私たちは天に居場所(立ちどころ)を持つ者です(「わたしたちの本国は天にあります」3章20節)。それゆえに、この世の生活の中で時に激しい嵐が吹き荒れ、翻弄されることがあっても、私たちは立ち続けます。嵐のただ中にキリストの十字架が立っているからです。十字架こそは、「嵐吹く時のいわおのかげ、荒れ野の中なるわが隠れ家」(『讃美歌21』300番)です。(T)

2020年3月8日(日)-ローマの信徒への手紙 7章24節

”死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。”

 自分が望む善を行なわず、望まない善を行っているのが私たちです。私たちは誰もが罪によって「死に定められた体」をもって生きています。その私たちを罪と死から救うことができるお方はただお一人、主イエス・キリストです。(M)

2020年3月1日(日)ーコリントの信徒への手紙Ⅰ 1章23節

”わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。”

 パウロは、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」と語りました。このパウロの言葉に呼応して、わたしたちも十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。この世においては弱さ、愚かさ、救いの挫折としか理解されないキリストの十字架の死ですが、神さまの救いを信じる者にとっては、神の力、神の知恵、救いの完成の確かな証拠です。(T)

2020年2月23日(日)-ガラテヤの信徒への手紙 3章24節

”こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。”

 パウロは、信仰者にとって律法は、人が大人になるまでの間、子どもを養育するような役割を果たしていると言いました。大胆な言い方であり、ユダヤ人たちには受け入れがたいことであったと思います。けれどもパウロはそのことを自分の身をもって経験し、知ったのです。神さまがこの私を、キリストのもとへ導くために律法を備えてくださり、その律法に完全に従おうとして努力をしたこと、そのこともまた、神さまのお導きの中にあったことであったとパウロは言うのです。私たちにおいても、神さまは実にさまざまな方法でキリストのもとへと導いてくださいます。(T)

2020年2月16日(日)-ガラテヤの信徒への手紙 3章18節

”しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。”

 信仰の父アブラハムは律法(信仰についての諸規定)を守ることによって祝福を得たのではありません。神さまが、一方的な愛の約束によってアブラハムを守り、祝福し、導かれたのです(律法が定められたのはアブラハムのはるか後の時代でした)。神さまは、そのアブラハムとの約束を守られ、主イエス・キリストによって、アブラハムに与えられた恵みをお示しになりました。私たちは神さまの愛の約束によって祝福を与えられ、キリストに導かれて歩みます。「信仰とは神の恵みに対する生きた、大胆な信頼」であり、「私たちのうちにおける神のわざ」(ルター)なのです。私たち一人ひとりに与えられている神さまの尊い約束を感謝して歩んでまいりましょう。(T)

2020年2日9日(日)-コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章14節~15節

”自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる”

 「許す」ということには、1.復讐をしない、2.罪を免除する、という2つの要素があります。2つ目の相手の罪を免除した結果、自分がその責任を負うことになります。そうすると自責の念や自己嫌悪、怒りが原因で心身に障害を引き起こすという現実をも引き受けざるを得ません。キリストが私のために死んでくださった事実の重さ尊さに心打たれます。キリストが私の罪の責任を代って負って死んでくださった。そうすると私は自分の人生を変えざるを得ません。自分のために死んでくれた人のことを考え、その人の分まで生きようと思い、自分の世界の中心の座にキリストを招き入れて、新しい自分になろうと一歩を踏み出すのです。そこで、洗礼を受けて神の家族の一員になり、キリストの愛の中でお互いに愛し合う生活が始まります。はじめの一歩を踏み出しましょう。(M)

2020年2月2日(日)-ガラテヤの信徒への手紙3章13節

”キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。”

 主イエス・キリストは、本来私たちが受けるべき苦しみと悩みを、私たちに代って受けられました。主は神さまと人との関係の断絶という”呪い”を打ち破り、神さまとの確かな繋がりに生きる”祝福”へと導き出してくださいました。十字架上の主のまことに痛ましいお姿は、私たちが受けるべき呪いを、主が一身に引き受けておられるお姿です。主イエスは弟子たちを「祝福しながら」」天に昇られました(ルカ24:50~51)。そして弟子たちは、日々、「神をほめたたえて」(同24:52)過ごしました。この「祝福する」と「ほめたたえる」は同じ言葉で、「よい言葉を語る」という意味です。神さまと人との間で祝福が行き交うことが礼拝であり、キリスト者の日々の生活です。(T)

2020年1月26日(日)-ガラテヤの信徒への手紙3章9節

”信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。”

 「信仰によって生きる」とは、「信仰をよりどころとして生きる」ということです。旧約聖書に登場する信仰の人アブラハムにおいては、信仰とは、神とともに生きることでした。私たちは洗礼を受けることによって主イエス・キリストに結ばれ、キリストのものとされます。そして、生涯、キリストを導き手とし、同伴者とし、支え手として歩む者とされます。それは、キリストがこの私の内に生きておられる(ガラテヤ3:20)からにほかなりません。(T)

2020年1月19日(日)-ガラテヤの信徒への手紙3章1節

”目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。”

 「示された」との言葉は、「描き出された」(口語訳)とも翻訳されます。つまり、十字架につけられた主イエス・キリストのお姿が、看板やプラカードに描かれて、目の前につきつけられているということです。キリスト者は、そのキリストのお姿から目を離さず、福音を聞くことによって信仰へと導かれます。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマの信徒への手紙10章17節)からです。キリストの福音(=十字架の言葉)を聞き続けて、共に信仰の歩みを進めてまいりましょう。(T)

2020年1月12日(日)-ヨハネによる福音書3章29節

”だから、わたしは喜びで満たされている。”

 ヘブライ人への手紙11章には旧約聖書に登場する信仰者たちが、「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげた」と記されています。そこには、ゴールを自ら駆け抜けなくても、最後から一歩手前を真剣に走り抜く者の姿が、生涯が、信仰のあるべき模範として証しされています。洗礼者ヨハネも、神が定められたキリストの十字架と復活による救いの道筋をしっかりと見すえ、それに委ねて、去りゆく者の確かな喜びの叫びを、喜びの響きを伝えています。この洗礼者ヨハネの指にならって私たちもまたイエス・キリストの友と呼ばれ、証し人とされている幸いを、今日、改めてかみしめたいと思います。「わが行くみち いついかに なるべきかは つゆ知らねど 主はみこころ なしたまわん。そなえたもう 主のみちを ふみて行かん、ひとすじに。」(『讃美歌21』463)(M)

2020年1月5日(日)-ガラテヤの信徒への手紙2章20節

”生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。”

 私たち一人ひとりの人生の主人公は私ですが、私たちの人生そのものの主人は主イエス・キリストです。主は私たち一人ひとりの内におられ、私たちを支え、導き、主なる神さまのみわざに仕える者としてくださいます。キリスト者は、キリストの十字架の死によって古い私が死に、キリストの復活の命によって新しい私が生きている者です。パウロが喜びと感謝のうちに伝えた、「もはや我生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。」とのみ言葉の真理を深く味わいつつ、主の年2020年の歩みを進めてまいりましょう。(T)

2019年12月29日(日)ーコロサイの信徒への手紙1章17節

”御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。”

 天地万物を造られた神さまは、ひとり子イエス・キリストの十字架のあがないによって、私たちを闇の力から救い出してくださいました。キリストによって私たちは神さまと共に歩む道が開かれました。この世界と私たち一人ひとりの歩みにおいて闇の力がなお勢いを持っているかのように見える中で、神さまは確かにキリストによって救いのみわざを進めておられます。(T)

2019年12月22日(日)-ルカによる福音書2章20節

”羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。”

 神さまは私たちを求め、私たちに命を与えるために、惨めな、捨てられた姿となって「神が人となって来られた」。この主の到来が私のためであったと知った者は、その場所で神をあがめ、賛美する生活を始めます。そこには俄然生きる意味と力が生まれてきます。自分の生活や自分の仕事、そして自分自身を神さまはどのように用いてくださるのか楽しみとなって、自分の小さなわざを神さまにささげます。命の主のために命を使う冒険者になっていきます。クリスマスというのは、そのような人生、そのような命への招きの時です。(M)

2019年12月15日(日)-ペトロの手紙Ⅱ 1章19節

”夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで"

 「明けの明星が・・・昇る」とは、メシア(救い主)の到来を表現する言葉です。主イエスのお誕生は夜の闇の中で起こった出来事でした。そのため、主の天使は、「夜通し羊の群れの番をしていた」(ルカ2:8)羊飼いたちのもとを訪れ、占星術の学者たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方・・・の星を見た」(マタイ2:2)のでした。クリスマスは夜の闇の中にまことの光が輝いた出来事です。その光とは主イエス・キリストのご栄光であり、真実の希望の光です。私たちの心の中に明けの明星が昇り、希望の光が輝くクリスマスを共に喜び祝いましょう。(T)

2019年12月8日(日)-テモテへの手紙Ⅰ 1章15節ー

”「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。”

 クリスマスは、主イエス・キリストが罪人を救うためにこの世に来てくださった出来事です。私たち人間のこの世界には、今もなお悪の力が働いており、私たちもまた救われるべき罪人の一人です。神さまは私たち人間に救いをもたらすために、御ひとり子主イエス・キリストをこの世界に与えてくださいました。主は私たちと同じ人間となられ、人と共に歩んでくださいました。それゆえに主は私たちの悩み、苦しみ、痛み、悲しみ、嘆きをよく知っておられ、私たちにまことの救いを与えることがおできになるのです。(T)

2019年12月1日(日)-テトスへの手紙2章11節ー

”実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。”

 クリスマスは、「神の恵みが現れ」たことを喜び祝う日です。聖書には、主イエスのお誕生の出来事の記録と共に、主のお誕生は、神さまがこの世にもたらされた恵みの現れであるとの証言が記されています。それは、ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになった幼子が、この世のすべての人々を罪から救うキリスト(救い主)であられるということの証言です。このことこそは教会が宣べ伝えている福音(良い知らせ)です。主イエス・キリストのお誕生を喜び祝い、その恵みを世に証ししてまいりましょう。(T) 

2019年11月24日(日)-哀歌3章22節~23節ー

”主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。

 神の慈しみを感じるその朝を迎えるためには時に神に問い、時に神を批判することもあるかもしれません。イエス・キリストは十字架の死をも神さまに委ねられたことにより、赦しと救いと希望を私たちにもたらしてくださいました。イエス・キリストがこの世に転換点として来られたことによって、罪も死も超えた先にある喜びと救いが示されたのです。だから私たちは大いに神を求め、神に問い、時に神を批判したいと思います。イエス・キリストの存在を身近に感じられたらどれほどの支えとなることでしょうか。(M)

2019年10月27日(日)ーペトロの手紙Ⅰ 2章17節ー

"すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。"

 キリストの教会は最初の歴史の300年間、信仰の故に侮辱されながら、なお、すべての人を敬い、兄弟姉妹を愛し、神を畏れ、皇帝を敬う生活を続けました。そしてついにはローマ皇帝がキリストを信じるようになりました。神さまが訪れてくださったのです。その神さまの訪れが私たちの隣人にも、この国にも必ず与えられると私たちは信じます。私たち自身、神さまの訪れを受け、重んじられた者として今ここに生かされています。この神さまの愛を知るが故に、私たちもすべての人を重んじる生活を新たに始めるように招かれています。(M)

2019年10月6日(日)-ガラテヤの信徒への手紙1章:23節ー

”「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」”

 復活の主イエスに出会い、回心するまで、パウロは主イエスを救い主と信じる者を迫害する人物として知られ、恐れられていたことと思います(使徒言行録7章58節~8章3節、9章1節~2節)。そのパウロが、キリスト者たちを迫害することを止めたばかりか、彼らと信仰を同じくし、福音を告げ知らせる者となったことに人々は大いに驚いたことでしょう。福音の大いなる力はキリスト者たちの信仰の迫害者パウロを、福音の信仰の宣教者パウロに変えたのです。(T)

2019年9月29日(日)ーガラテヤの信徒への手紙1章:15節-

”しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召しだしてくださった神が…”

 神さまは、キリストの教会を迫害し、滅ぼそうとしていたパウロを選ばれ、異邦人に福音を告げ知らせるために召し出されました。そこには、パウロが生まれる前からの神さまの深いみこころがありました。私たちもまた神さまに選ばれ、神さまのみわざのために召し出された者です。パウロは神さまの召しに応えてすぐに行動を開始しました。自分自身に対する神さまの深い愛と恵みを、ただちに告げ知らせずにはいられなかったのです。(T)

 

2019年9月22日(日)-ルカによる福音書10章27節

”「・・・あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」”

 「永遠の命とは何か?」という律法の専門家の質問に主イエスは「愛すること、共に生きていくこと」と答えられ、さらに「では私の隣人とは誰ですか?」という質問に、ひとつの物語(善いサマリア人)を語られました。サマリア人は壁や境界線よりも腹わたが痛む、痛みを伴う共感から傷ついたユダヤ人の隣人となりました。傷つけられ、痛みを覚え、愛する者を失い、病に苦しみ、失敗してどん底にいる経験は、私たちの腹わたです。腹わたが痛むことを通して私たちは隣人の顔に出会います。十字架において苦しみ、最も低い所で倒れておられた主イエスのお姿は、私たちが隣人を見出していく地平をさらに開いてくださったと思います。(M)

2019年9月15日(日)-ガラテヤの信徒への手紙1章6節ー

”キリストの恵みへと招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。”

 「キリストの恵みへと招いてくださった方」とは神さまのことです。ガラテヤの教会の兄弟姉妹たちが神さまから離れてしまっているとのことを聞いたパウロは、そのように「ほかの福音」をもって彼らを惑わした者たちへの厳しい言葉を記しました。それと共に、福音宣教の働きがまず何よりも神さまのみ前でなされ、神さまに喜ばれるべきものであることを記しました。ガラテヤの信徒への手紙は、パウロ自身も神さまのさばきの前に立ちつつ、福音をめぐる信仰の戦いの中を生きていたことの証しの文書です。(T)

2019年9月8日(日)-ローマの信徒への手紙5章1節-

”わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており・・・”

 主イエスを救い主と信じる信仰によって与えられる恵みはたくさんありますが、その中でも、「神との間に平和を得て」いるということは、あらゆる恵みの土台であると言えます。ある方は、「足もとに大地が広がっているように平和が与えられている」と表現しました。転んでも、倒れても大丈夫。私たちはなお大地(神の平和)の上にいるのだからというのです。キリスト教信仰に生きることの幸いは、この大地の上で人生の日々を歩み、そして、天の御国に迎え入れられる約束を与えられていることです。信仰の諸先輩の生涯の歩みに倣い、大地(神の平和)の上を歩んでまいりましょう。(T)

2019年9月1日(日)ーガラテヤの信徒への手紙1章4節-

”キリストは・・・御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。”

 パウロは、ガラテアの教会の兄弟姉妹に対して、自分がキリストの福音を宣べ伝える使徒とされたのは、人々からの推薦や任命によってではなく、神に召されたからであると記した後、すぐに、私たちはキリストの献身(十字架と復活)によって救われたのだと記しています。教会はこのキリストの献身を福音として宣べ伝え、世界はキリストの献身によって支えられています。(T)

2019年8月25日(日)-ルカによる福音書8章48節-

”「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」”

 イエスさまは一見すると律法を破っているように見えて、その実、律法をきちんと皆が納得できるような意味のあるものとして提示しなおしていくことをなさいました。12年間長血を患った女性も、汚れを断罪されるかもしれないという状況で、イエスさまのみ衣のふさに触れ、いやされたことを群集の中で告白しました。その信仰告白的な行動は、私たち自身の信仰を育むと共に、その周囲にも律法や信仰をとらえ直すという良い実りをもたらす結果へと導きました。私たちも、日々の生活の中での信仰的な発言や行動を、神さまの御前で意識していきたいと思います。(M)

2019年8月18日(日)-ホセア書6章1節-

”さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。”

 聖書に記されている「平和」とは、私たちが、この世界と私たちを造られた神さまと共に生きることです。神さまは世界を造られ、私たちに世界の平和を保つ務めを託しておられます。平和を実現し、それを保つために必要なことは、私たちの造り主であられる神さまのもとに立ち帰ることです。人と人とが力を競い合うことによってではなく、お互いに神さまに造られた大切な存在として祈り合いつつ、共に和解の道を歩んでまいりましょう。 (T)

2019年8月11日(日)-アモス書5章24節-

”正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ。”

 アモスは紀元前8世紀前半、北イスラエル王国のヤロブアム二世の時代に預言活動をしました。それは繁栄の時代でしたが、その陰にあって社会的不正が横行し、宗教祭儀も形式的なものとなっていました。そこでアモスが神さまから託された言葉(預言)は、単に社会正義の実践や宗教心の回復ということではなく、人々が心から悔い改めて神さまに立ち帰ることでした。しかしこの後、北イスラエル王国は滅亡へと向かいました。私たちには、神さまに立ち帰るまことの道が主イエス・キリストによって示されています。(T)

2019年8月4日(日)-ヨハネによる福音書21章24節-

”これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。"

 2016年1月より読み進んで来たヨハネによる福音書の最後の箇所です。聖書は主イエスが救い主(キリスト)であられることを証しする書です。そして、その「証しが真実であることを知っている」者たち、すなわち、すべてのキリスト者と教会は、その証しのために遣わされています。平和の主イエスを証しし、その恵みを多くの方たちと分かち合ってまいりましょう。(T)

2019年7月28日(日)ーヨハネによる福音書21章15節~17節ー

”「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」”

 死から復活された主イエスは、弟子のペテロに対して三度も、「私を愛しているか」と問われました。それは、ペテロが三度も主イエスの弟子であることを否定したからでした(ヨハネ18:15~18、25~27)。ペテロは主イエスを救い主(キリスト)と告白しながらも、主との関係を問われた時、その関係を否定してしまいました。ペテロは主イエスの弟子の一人であることを証しすることができなかったのです。復活の主はペテロに、「わたしを信じているか」ではなく、「わたしを愛しているか」と問われました。主イエスを愛して生きること、その愛の絆こそが信仰の根本において必要なことです。(T)

2019年7月21日(日)-ヨハネによる福音書21章13節-

“イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。”

 主イエスキリストは私たちの日毎の食卓の主として、私たちにまことの命の糧を与えてくださいます。主イエスのお言葉、教え、お働きによって、私たちは信仰生活の糧を与えられます。そして、それだけではなく、主イエスキリストはご自身の命と体を私たちに与えてくださいました。そのことこそが主の十字架において起こっていたことでした。キリスト者とは、主イエスが主であられる食卓を囲み、主の御体(みからだ)をいただくことによってまことの命と力を得て日々を歩む者です。(T)

2019年7月14日(日)ーテサロニケの信徒への手紙一・5章16節~17節-

"いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。"

 イエスさまがいらっしゃらなかったら絶対にできないことです。そしてこれが、神さまが願っていらっしゃるぶどうの実だと思います。イエスさまの命によって贖われた者として、イエスさまのぬくもりをいただいて、共に歩む人たちと一緒に互いのぬくもりで歩んでいく時、その時に神さまは私たちの命を祝福してくださるでしょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)イエスさまの愛と温かさが伝わりますようにそれぞれの場に派遣されてまいりましょう。(M)

2019年7月7日(日)ーヨハネによる福音書21章6節-

"イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」"

 復活の主イエス・キリストは、弟子たちが夜通し漁をしていた時、湖の岸辺に立って、彼らの労苦をご覧になっていました。その主のまなざしは、主が弟子たちを最初に招かれた時、その一人ひとりに注がれたまなざしそのものでした。そのように、私たちが日常の歩みにおいてさまざまな労苦をしたり、困難を覚えたりする時、私たち一人ひとりにも主のまなざしが注がれていることを覚えたいと思います。そして、主のお言葉に従ってもう一度網を打った弟子たちのように、私たちもまた主のお言葉に聞き従い、その促しに答えて、神さまが私たち一人ひとりの人生の歩みにおいて備えていてくださる豊かな恵みをいただくものとして歩んでまいりたいと思います。(T)