2023年11月19日(日)ーテモテへの手紙Ⅰ6章19節

”真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。”

 パウロはテモテに、富んでいる人々に対して、高慢にならず、富に望みを置くのではなく、神に望みを置くように、また、良い行いに富み、物惜しみせず、「喜んで分け与える」(18節)生き方をするように命じなさいと教えています。そのようなことこそが、真の命を得るための堅固な基礎を築くことになるというのです。私たちは日々の生活の中で、いつも自分のことばかり考え、目の前のことにしか関心を持っていないのではないでしょうか。こどもたちや次の世代の人々の未来に備えて、今、私たちがなすべきことを、いつも聖書から学んで歩んでまいりましょう。(T)

2023年10月29日(日)ーマルコによる福音書6章12節

”十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。

 私たちは自分の目の中にある秤(はかり)をもって計り、理解し、評価しています。時にそれは自分を縛り、自分の可能性を縮めてしまうこともあるかもしれません。福音と出会うということの持っている大きな爆発力は、私たちのそうした殻や枠を突き破り、私たちが、自分が持っていると思う以上の可能性と力とを発揮させます。宗教改革者マルティン・ルターが全力で常識を疑ってひっくり返し、世界を変えて周りの人々に喜びを伝えたように、私たちにも同じことをする力が与えられています。(M)

2023年10月22日(日)ー使徒言行録26章20節

”「・・・・・私は・・・・・悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと伝えました。・・・・・」

 パウロは自らの取り調べにおける弁明の時を用いて、アグリッパ王の前で回心の出来事を証しした後、「アグリッパ王よ」と呼びかけて、「悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするように」と語りました。パウロは大胆にもアグリッパ王に福音を宣べ伝えているのです。私たちも与えられた時と場を生かして、大胆に、主イエス・キリストの十字架の死と死者の中からの復活の福音を宣べ伝えてまいりましょう。(T)

2023年9月24日(日)ールカによる福音書11章14節

”悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めた・・・”

 悪霊というのは離間者とも言われ、関係を破壊するものです。ふり返ってみて自分は何に縛られているのか、何を恐れているのか、何が足りなくて何が必要なのか、何を信じるのか、それに気づかせる力がいやしの力であるように思います。真の解放と平和、平安をもたらすイエス・キリストは、私たちから悪霊を追い払い、私たちが私たちのありのままを受け入れ合うことへと導かれます。誰もが同じではありませんから、その違いを互いに認め合い、受け入れ合い、尊重し合えるように、引き裂かれた関係が回復されるように、霊の戦いに勇敢にいどんでいきたいものです。(M)

2023年9月3日(日)ー使徒言行録25章11節

”パウロは言った。「・・・この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。・・・」”

 パウロはカイサリアで、総督フェストゥスによる裁判に引き出されました。パウロを殺そうとたくらんでいたユダヤ人たちがパウロを取り囲み、思い罪状を言い立てましたが、結局、立証することはできませんでした。フェストゥスはパウロに、エルサレムで裁判を受けたいと思うかと問いました。しかしパウロは、ローマ皇帝に上訴すると述べました。これまでパウロはユダヤ人たちの前に立たされ、また、二人の総督の前に立たされました。けれども、どのような場面であっても、パウロは常に主なる神さまのみ前に立っていました。そのパウロを通して主なる神さまのみわざが大胆に証しされています。(T)

2023年8月27日(日)ーコリントの信徒への手紙Ⅰ 12章14節

”体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。”

 聖書におきましては、私たちは個ではなく全体とのつながりの中にある部分であると言われています。ここはイエス・キリストの体としての教会のことを表しているものですが、これは真理の原型ですので、人間関係の組織や国際関係といったもののモデル・原型としても理解することができます。私たちが争いをどこまで克服し、平和な世界を実現できるか、ということは自分自身を、そして他の人をどこまで全体の部分として受け止めることができるか、そのことにかかっていると言えるでしょう。そして私たちにはすでにキリストによって配慮・一致・使命が与えられています。互いに違う使命を与えられた者としてそれを尊び、神さまが何をなそうとしていらっしゃるのか、そのみ声をまっすぐに聞いていきたいと思います。(M)

2023年8月20日(日)ーイザヤ書2章5節

”主の光の中を歩もう。”

 イザヤ書2章の冒頭に記されている預言は、「終わりの日」(=終末)における神さまの平和のヴイジョンです。そして、そのヴイジョンは、私たちに対して、週末に向けて”平和への道行きを歩むことを促しています。預言者イザヤはイスラエルの民に現実の不正義の状況を明らかにし、主なる神さまへの信仰に立ち返ることを伝えました。そして、終末における神さまの平和のヴイジョンを見すえて、平和への道を歩み続けることを伝えています。主なる神さまのみ言葉を聴きつつ(4節)、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(同節)地道な歩みを続けてまいりましょう。(T)

2023年8月13日(日)ーイザヤ書9章6節

”平和は絶えることがない。

 預言者イザヤは、闇の中を歩み、死の危険にさらされている人々に救いと希望の光をもたらす「ひとりの男の子」の誕生を預言しました。(イザヤ書9章1,5節)。その名は「驚くべき指導者」「力ある神」「永遠の父」「平和の君」と唱えられ、彼において神さまの権威(=主権)が現わされると言うのです。さらに、「その主権は増し、平和には終わりがない。」(イザヤ書9章6節[聖書教会共同訳])とあります。この「終わりなき平和」とは神さまの平和のことです。平和が終わってしまう苦しみ、悩み、痛みに直面する世界に対して、救い主イエス・キリストは、終わることのない神さまの平和の国の到来を宣言されました。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイによる福音書4章17節)(T)

2023年8月6日(日)ーイザヤ書11章9節

”わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。”

 「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。・・・乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」これは人間が理想とする平和な世界の一場面ということではありません。これは神さまの救いのビジョンであり、神さまが完成される世界の様子です。そこでは神さまの深い愛と徹底したお導きによって、「敵対関係そのものが終わる」(大島力)ということです。私たちはともすれば世界の悲惨な現実や出来事に振り回され、自分の立ち位置がブレてしまいます。しかし、信仰者にとって必要なことは、神さまへの信頼(=信仰)をもち、神さまのビジョンを確信し、そこからブレないことです。(T)

2023年7月30日(日)ーテモテへの手紙二 2章13節

”わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。”

 私たちはいつも真実な生き方をしたいと願っています。また、人に対して誠実でありたいと願っています。けれども私たちは、しばしばそのような願い通りにならない自分自身の現実に直面し、落胆します。けれども、聖書は、そのような私たちのために、主イエス・キリストが真実を貫かれたことを教えています。主の十字架の死において明らかにされているように、主イエス・キリストにはウソやごまかしがありません。私たちが真実で誠実に生きるためには、私たちが主の真実によって支えられることが必要です。主のお言葉は、私たちの日々の歩みが真実なものであるための確かな土台となるものです。キリストの真実に支えられ、生かされて歩んでまいりましょう。(T)

2023年7月23日(日)ーマタイによる福音書20章4節

”「あなたたちもぶどう園に行きなさい。・・・」”

 ぶどう園の主人(神さま)は夜明けすぐに、朝9時に、お昼12時に、午後3時に、そして夕方の5時に広場に行って人々を雇い、自分のぶどう園に送り出し、夕方になってすべての人に1デナリオンの賃金を払いました。主人は誰からも必要とされていない人がいないように何回も出かけて行きました。すべての人に一日生活するのに必要な安心を、平安を与えたいのです。そして、最後の者から賃金を与えられました。神さまはそのように、共に喜んでほしい、天国の恵みを一緒に喜んで広げてほしいと私たちをも招いてくださっています。主の招きに応じ、この恵みに生きること、そして、このお方と共に歩むことを決意しましょう。(M)

2023年7月16日(日)ー使徒言行録24章15節

”パウロは答弁した。「・・・正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。・・・」”

 大祭司アナニアをはじめとするユダヤ人たちから訴えられたパウロが、ローマの総督フェリクスの前で答弁しました。その中でパウロは、死者の復活の信仰を二度証ししました(使徒言行録15節,21節)。「夜の終わりは、朝の始まりになる。」と言った人がいます。キリスト教信仰においては、地上の命の終わりは、永遠の命の始まりです(讃美歌21』575番3節)。困難に直面し、暗闇の中を歩む日々を過ごすことがあっても、その先に「復活の希望」が備えられていることを信じ、復活の主イエス・キリストと共に歩んでまいりましょう。(T)

2023年7月9日(日)ー使徒言行録23章16節

”この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。”

 ユダヤ人たちの間でパウロを殺す計画が話されていました。ところが、そのことをパウロの姉妹の子が聞き込み、パウロに知らせました。彼が、一体どのようにしてその陰謀を聞くことができたのかは分かりません。おそらくたまたま聞きつけたということではないかと思います。しかし、それは、パウロに、「ローマでも証しをしなければならない。」(使徒言行録22章11節)と告げられた神さまのみこころ(神の導きの必然性)の実現そのものでありました。「ああ、神の富と知識のなんと深いことか。」(ローマの信徒への手紙11章33節) (T)

2023年7月2日(日)ー使徒言行録23章1節

”パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」”

 パウロの「良心に従って神の前で生きてきました」との言葉に、最高法院の議員たちは激しく怒りました。それは、自分たちこそは良心に従って神のみ前で生きているとの強い思いがあったからです。ここに、信仰者が陥りやすい落とし穴があります。私たちが神さまのみ前にあって正しく生きようとする時、他者の信仰や生き方に対して激しい反発心を抱くことがあるのです。パウロが直面した困難は、今の私たちの世界でも起こっています。神さまのみ前にあって、お互いに謙遜に信仰の道を歩んでまいりましょう。(T)

2023年6月18日(日)ー使徒言行録22章21節

”「・・・主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」”

 パウロは神さまに選ばれ、異邦人のための宣教者とされました。神さまは、パウロが有能な人物であったから選んだというのではありません。そうではなく、神さまがパウロを愛し、ご自分のものとされたということです。それが選びの意味です。そして神さまは、パウロが神さまの愛の中を生き、神さまの愛を宣べ伝える者として用いられました。神さまは、私たちに何かしら能力があるから選んでくださったということではありません。神さまが私たちを深く愛し、キリストの十字架の贖いによってご自分のものとしてくださったということです。私たちも、それぞれの遣わされた地で、置かれた場所で、神さまの愛の中を生き、神さまの愛を証ししてまいりましょう。(T)

2023年6月11日(日)ー使徒言行録22章14節~15節

”アナニアは言いました。「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。・・・あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。・・・」”

 パウロは、彼を殺そうといきり立っている民衆に向かって、自分自身の回心の体験(使徒言行録9章1節~19節)を話しました。それはパウロの信仰の歩みの証しであり、何よりも、神さまがパウロを用いられたことの証しでありました。神さまが選ばれた一人ひとりは、神さまによってそれぞれの信仰の証しのために用いられます。かつてキリスト者たちを迫害していたパウロは、今や、主なる神さまの大いなる恵みを証しする者として用いられています。パウロと同様に私たちも、神さまの恵みを証しする者として用いられております。(T)

2023年6月4日(日)ー使徒言行録21章30節

”都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。”

 エルサレムに到着したパウロは、エルサレム教会で、伝道の旅において多くの異邦人が救いに入れられたことを証ししました。これを聞いた人々は神さまを賛美しました。しかし、その後パウロは、パウロが律法を守らなくてよいと教えていると騒ぎ立てるユダヤ人たちによって、神殿の境内で捕らえられました。先に聖霊が告げていたパウロの苦難が現実となったのです。聖書は、パウロがエルサレムを経由してローマに行くことも、また、エルサレムでこのような苦難に遭うことも、どちらも神さまのお導きのもとに起こったことであり、神さまのみこころによるものであることを伝えています。(T)

2023年5月28日(日)ーヨハネによる福音書16章13節

”その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。”

 聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれますが、ギリシア語の50番目を意味する言葉で、復活祭から50日目に聖霊が降った出来事を記念する日、主イエスさまが約束していてくださった聖霊が弟子たちに与えられ、教会が誕生した祝いの日です。聖霊は弁護者としてこの世の誤りを明らかにし、真理を悟らせてくださり、主イエスさまの栄光をあらわすように働かれます。私たちが出会うそれぞれの場で聖霊の風が吹き、私たちのこの手が、この足が、この口が主イエスさまの愛と和解と平和を証しし、とらわれでなく解放の霊によって歩むことができますように。(M)

2023年5月21日(日)ー使徒言行録21章14節

”わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。”

 パウロとパウロを慕う人々との別れの場面が続きます。そこでは皆が、もう二度とパウロに会うことはないだろうとの思いでおりました。しかし、それは決してパウロによる伝道の働きが終わることを意味しているのではありませんでした。パウロは、「別れ」の後に「船出し」、「出発した」のです。「人間のピリオドと神のカンマ」との言葉があります。人間の判断では終わり(ピリオド)と思えても、神さまのみこころにおいては一区切り(カンマ)であって、次に続くということです。私たちは、神さまのみこころの前に、自らの口をつぐむしかありません。「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」(主の祈り)との祈りをもって歩んでまいりましょう。(T)

2023年5月14日(日)ーヨハネによる福音書20章29節

”イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」”

 トマスは心から主イエスにお会いしたかったのでしょう。復活の主イエスは、そのトマスにご自分の方から近づかれ、お体に残されていた十字架の傷跡(きずあと)をお示しになりました。それは、トマスをはじめとする弟子たちを罪から救われたことを示す、まことの愛のしるしです。トマスは、主イエスの深い愛が自分に迫っていることを知り、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をしました。私たち一人ひとりにも、復活の主イエスが近づいて来ておられます。その主の深い愛の迫りを覚え、「見ずして信ずる者は幸いなり」〔文語訳〕の信仰に生きる者とされてまいりましょう。(T)

2023年5月7日(日)ーコロサイの信徒への手紙3章14節

”これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。”

 憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦しを身に着けなさいとの勧めの後に、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。」と語られています。その一つひとつは人間の徳としてすばらしいものですが、それらは神さまの愛によって結び合わされて完全なものとされるというのです。キリストを着て、神の愛に生かされてまいりましょう。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤの信徒への手紙3章27節) (T)

2023年4月30日(日)ーヨハネによる福音書20章19節

”弟子たちは・・・家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。”

 恐れのただ中にある弟子たちのところに復活の主イエスが来られました。弟子たちは、「家の戸に鍵をかけていた」のですが、復活の主イエスは、弟子たちの交わりの真ん中に立たれ、「あなたがたに平和があるように([文語訳]平安なんぢらに在れ)」と言われたのです。復活の主イエスは、恐れや不安の中にある主の弟子たちにお姿を現されました。十字架で死なれた主イエスは、弟子たちの交わりの中に復活されたのです。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリントの信徒への手紙Ⅰ15章20節)。主を信じ、主の御名によって集う私たちの群れと、その交わりにおいて、私たちは先に天に召された方たちと共に、主を賛美礼拝します。(T)

2023年4月23日(日)ールカによる福音書24章32節

”二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。”

 聖書では神さまと私たちの関係を親子という関係で表すことがあります。親である神さまは、子どものどんな姿勢に関係なく受け入れ、何度でも諭し、あるべき道に立ち返るまで決して見捨てないし、限界を設定されません。ただ私たち、子が喜ぶ、安心するということが神さまの喜びです。復活の主が築いてくださった信頼の絆によって、私たちも互いにつながり、信頼し合い、支え合ってキリストの体なる教会を形造っていきたいものです。洗礼を受けるお二人の上に主の豊かな祝福がありますように。(M)

2023年4月16日(日)ールカによる福音書24章44節

”イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。・・・」”

 復活の主イエス・キリストは弟子たちに聖書のみ言葉を示され、ご自分の死からの復活の事実とその意味とを証言されました。キリストのご復活は聖書のみ言葉(=神の言葉)の実現であり、神さまのみわざであることを告げられたのです。私たちも、主イエス・キリストのご復活を喜び祝う中で、聖書のみ言葉の証言へと導かれます。さらに、聖霊の助けによって心の目が開かれ、聖書の証言を悟り、キリストの復活の証人として遣わされます。(T)

2023年4月9日(日)ールカによる福音書24章5~6節

”「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。・・・」”

 主イエスに従った婦人たちは、主イエスのご遺体の葬りのために墓に行きました。墓は命と人生の終着点です。しかし、その墓で、婦人たちは天の使いより、主イエスは復活されたと告げられました。主イエスに従う者にとって墓は終着点ではなく出発点です。このイースターより、新たに主のご栄光を現わす歩みを始めてまいりましょう。主の復活、ハレルヤ!(T)

2023年4月2日(日)ールカによる福音書19章44節

”イエスは・・・言われた。「・・・それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」”

 主イエス・キリストは弟子たちの「先に立って進み」(ルカによる福音書19章28節)、エルサレムへと向かわれました。それは主イエスが神さまの定められた時に、神さまのみこころに従って歩みを進められたお姿でありました。主イエスがお生まれになった時、主イエスが伝道を始められた時、そして、主イエスが十字架への道へと歩みを進められる時、それらすべてが、「神の訪れてくださる時」でした。そのことを主は私たちに示しておられます。今この時こそ、私たちが自らの罪を悔い改めて、主のみ前に進み出る時です。(T)

2023年3月26日(日)ー使徒言行録20章35節

”パウロはこう話した。「・・・主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すように・・・。”

 パウロはエフェソの教会の長老たちへの別れの言葉を、主イエスの、「受けるよりは与える方が幸いである」とのお言葉をもってしめくくりました。そのお言葉通りに、主イエスは私たちにすべてのものを与えてくださいました。パウロは、私たちがその主のお言葉通りに生きることができないことを知っており、主のお言葉を思い出すようにと語りました。自己中心で、自分勝手で、自分の貪欲さを抑えることができない私たちに、繰り返し主のお言葉を思い出し、与える幸いに生きる道へ立ち返るようにと語ったのです。(T)

2023年3月19日(日)ー使徒言行録20章24節

”パウロはこう話した。「・・・自分の決められた道を走りとおし・・・神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。・・・」”

 パウロはエルサレムへの道のりを急いでいます。その後、ローマに行くことを願っていたからです。パウロ自身も、またエフェソの教会のメンバーも、これがパウロと顔を合わせることができる最後の機会であることを察知しておりました。パウロはエフェソの教会の長老たちに、自分がこれまで主にお仕えしてきた歩みを話し、今、聖霊に促されて、「投獄と苦難とがわたしを待ち受けている」(23節)エルサレムに行くと告げます。パウロは、自らの命の危機の中にあって、自分に与えられた、「神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすこと」(24節)に大きな喜びを覚え、満足しているのです。(T)

2023年3月12日(日)ー使徒言行録20章7~8節

”パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。”

 トロアスから出発する前の晩、パウロはある家の階上の部屋で、人々と共に礼拝をささげ、夜通しで、夜明けまでみ言葉を語り続けました。「階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。」とあります。夜の暗闇の中で、その部屋からは煌々と明かりが放たれていたのです。その明かりは、ともし火の灯かりであると共に、み言葉が放つ真理の光であり、み言葉を聞いて「心、内に燃えし」(ルカによる福音書24章32節[文語訳])人々の熱気あふれる神さまへの賛美でありました。地上のすべての教会が、そのような光を放つ存在として立っています。(T)

2023年3月5日(日)ーマタイによる福音書6章6節

”隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。”

 本当に私を知り、愛し、私の人生を成就してくださる神さまが、私自身よりももっと近くにいてくださいます。その神さまのまなざしの中に自分を置くところから祈りは生まれてくると思います。見捨てられたと思って絶望のどん底に沈んでいる人が助けられ、その中でも希望を与えられて生きていけるように支えられること、それが神さまの御心であり、世の中で最も苦しんでいる人々のそばに主イエスさまが共にいて苦しんでいてくださるという事実の中に神の国は始まっています。私たちの祈りに神さまへの賛美と御旨の成就と、全人類の救いがかけられていることを思い、すべての人が、共に苦しんでいたもう神さまに祈り、神さまとの深い愛の関係に招き入れられますように熱心に求め心動かし連帯していきたいと願います。(M)

2023年2月26(日)ー使徒言行録19章32節

”集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。”

 パウロの伝道に対する言いがかりで起こった騒動で集まった群衆は、自分たちが何のために集まっているのかが分からなくなっていました。コロナ禍のために、私たちは教会に集まることを制限しておりますが、それだけに集まることの意義を再確認できたように思います。私たちは主イエスのみ名によって集まり、神さまの栄光をほめたたえ、日々の歩みへと遣わされます。礼拝は、何をおいても主の招きに応え、主のみ前に集まる時です。(T)

2023年2月19日(日)ー使徒言行録19章5節

”人々はこれを聞いて主イエスの名によって洗礼を受けた。”

 私たちは、主イエス・キリストの名による洗礼を受けて、罪から救われます。それは、「この方(=主イエス)を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」(使徒言行録10章43節)からであり、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる(ローマの信徒への手紙10章13節)からです。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」(使徒言行録4章12節)のです。そして、私たちは主イエスの名によって集まり(マタイによる福音書18章20節)、主イエスのご臨在のもとにあって、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネによる福音書14章14節)との主のお言葉に従って祈ります。一日一日、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝し」(コロサイの信徒への手紙3章17節)て歩んでまいりましょう。(T)

2023年2月12日(日)ー使徒言行録18章23節

”パウロはしばらくここで過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。”

 パウロの第二回目の福音伝道の旅が終わりました(22節)。パウロを送り出したアンティオキアの教会は、パウロの伝道の旅における神さまのみわざの証しに大いに励まされたことでしょう。そしてパウロはまた旅に出ました。第三回目の福音伝道の旅です。パウロの福音伝道にかける情熱と祈りが伝わって来ます。それと共にパウロを送り出したアンティオキアの教会の信仰の偉大さを思います。福音を語り続けたパウロの背後に、パウロを福音伝道へと送り出し続けた教会があったのです。そのパウロの福音伝道の働きは、プリスキラとアキラ夫婦に、さらにアポロへと受け継がれて行きました。(T)

2023年2月5日(日)ーテサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章17節

”このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。”

 使徒パウロは、「死」の悲しみを乗り越えるための自分を強く保つ訓練や、悲しみを理性で抑え込もうということではなくて、主イエスが死んで復活されたことこそ私たちの希望だと断言をし、その根拠を人々の心に植え付けていきます。キリストの復活、昇天、再臨は最終的なあらゆるものに対する完全な神さまの勝利を表していて、キリストの再臨のとき空中で私たちがその所に招かれ(携挙ーけいきょ)いつまでも主と共にいることになるという壮大な神さまのご計画、約束は一人ひとりの人生、命さえも神さまの物語の一部として組み入れられていることを悟らせてくれます。(M)

2023年1月29日(日)ー使徒言行録18章9節~10節

”ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者ない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」”

 パウロはアテネで懸命に福音を語りましたが、豊かな実りを得ることはできませんでした。パウロはアテネを去りコリントに行きましたが、その時のパウロは、「そちら(コリント)に行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(Ⅰコリント2章3節)との思いもあったのかもしれません。しかし、神さまはコリントの町でアキラとプリスキラ夫婦との出会いを与えてくださいました。パウロは力を取り戻し、「安息日ごとに会堂で論じ・・・メシアはイエスであると力強く証し」(使徒言行録18章4~5節)しました。共に福音を宣べ伝える者がいることは大きな力です。私たちの教会全体が、福音を宣べ伝える一つの群れとなって、共に主を証ししてまいりましょう。(T)

2023年1月22日(日)ー使徒言行録17章27節

”パウロは言った。「・・・彼らが探し求めさえすれば、神をみいだすことができるようにということなのです。・・・」

 パウロはアテネで、「イエスと復活について福音を告げ知らせ」(18節)ました。アテネの人々は、最初はパウロが語る「新しい教え」(19節)に興味を示しましたが、パウロがキリストの復活について話すと、パウロをあざ笑って立ち去りました。このようにしてアテネにおけるパウロの伝道は豊かな実りを得ることはできませんでした。それでも、「信仰に入った者も、何人かいた」(34節)のです。パウロによる福音の伝道はたしかな実りを得たのです。(T)

2023年1月15日(日)ー使徒言行録17章2~3節

”パウロは・・・聖書を引用して論じ合い・・・『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。」”

 パウロとシラスによる伝道は、彼らの活動をねたむユダヤ人たちによって妨害されました。パウロとシラスは一つの所に長く留まることはできず、次の町へと向かわざるを得ませんでした。けれどもパウロとシラスは主イエスがメシア(救い主)であられると宣べ伝えることを止めませんでした。私たちの場合、福音を宣べ伝えること自体が妨げられることはほとんどないということは幸いなことです。しかし、残念なことに、その福音(=神の言葉)が、聞いている方たちの心に届き、生き方に影響を及ぼしているとは言えません。私たち自身が隣人と共に神の言葉を聞き続けてまいりましょう。(T)

2023年1月8日(日)ーフィリピの信徒への手紙4章9節

”平和の神はあなたがたと共におられます。”

 今年も、「神さまのみ言葉を聴き、神の子として成長」したいと思います。そのためには徹底して羊として、羊飼いである主なる神に対して「蛇のように賢く、鳩のように素直になり」(マタイによる福音書10章16節)、しっかりその声の導きに従い、羊でありとおして、狼の中を歩きとおしたいと願います。真実や、気高さや、正しさや、清さは、私たちの心を明るくし、喜びや希望を与える光として、世の中を照らしています。私の中に、隣人の中にそれらを見出しつつ、羊の群れとして平和の神に導かれてまいりましょう。(M)

2023年1月1日(日)ー詩編1編1~2節

”いかに幸いなことか・・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。”

 「幸いな者・・・主の教えを喜びとし その教えを昼も夜も唱える人」(聖書協会共同訳)との言葉をもって詩編が始まります。

詩編1編は詩編全体の主題を伝えています。主の年2023年が与えられました。この一年も神さまのみ言葉を喜んで聴き、日々の生活の中でみ言葉を証ししてまいりましょう。(T)

2022年12月25日(日)ールカによる福音書2章30節

”「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」”

 イスラエルの慰められるのを待ち望んでいたシメオンは、年を重ねて、幼子イエスと対面しました。シメオンは幼子イエスを腕に抱き、神さまをほめたたえ、この幼子こそは神さまの救いそのものであることを証ししました。天から照らされる大いなる光ではなく、自分の腕に抱かれている小さな命の鼓動と輝きこそが、「啓示の光」(32節)であると証ししたのです。そして、シメオンは母親のマリアに対して、主イエスがイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりすること、また、反対を受けること、すなわち十字架の死に至ることを預言しました。主イエスの十字架の死の前で私たちの罪は明らかにされます。しかし、主イエスは死の向こう側にある復活の命の鼓動と輝きを私たちにもたらしてくださるのです。(T)

2022年12月18日(日)ールカによる福音書2章14節

”「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」”

 主イエスがお生まれになった時、夜空に響いた天使たちの賛美こそが、クリスマスにおける神さまのみこころです。天における神さまのご栄光を賛美しつつ、地に平和をと祈り続けてまいりましょう。(T)

2022年12月4日(日)ーコリントの信徒への手紙Ⅱ4章6節

”「闇から光が輝き出よ。」”

 救い主イエスさまは、神であることをやめて人間の姿となり、すべてを捨てて私たちを探し求め、見つけ出し、「あなたは高価で貴い」と、私たちが本来持っている輝きを取り戻してくださいました。クリスマスの星のように互いの輝きを認め合いたい。私たちは相互に探し合い、各々の輝きを見つけ出す者になりたいと思います。(M)

2022年11月27日(日)ールカによる福音書1章47節

”マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ・・・」”

 「主をあがめる」とは、「主を大きくする」ということです。平和なクリスマスを望むことができない世界の闇の現実の中で、私たちは主を大きくし、世界の闇のただ中にクリスマスの平和があるように祈りましょう。(T)

2022年11月20(日)ー使徒言行録16章25節

”真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。”

 パウロとシラスは暗闇の牢の中で神さまを賛美し、祈りました。不安や恐れといった暗闇こそ、私たちが神さまに出会う場です。暗闇の時こそ、私たちが賛美と祈りによって神さまとの交わりをもつ時です。(т)

2022年11月6日(日)ーマタイによる福音書9章24節

”イエスは・・・言われた。「・・・少女は死んだのではない。眠っているのだ。」”

 私たちの愛する人々、そして私たちも、復活の主イエスの命につながっている者です。復活は最後の希望を私たちに与えます。かつて殺された者たちとかつて殺した者たちが復活し、出会う日が来る時、主イエスは「許し合いなさい。平和に生きなさい」と語りかけられるでしょう。生きる時も死ぬ時も死を越えて主の命につながり、「イエスさまはこの時何を考え、何を思い、どうされたか」を問いながら新しい生き方を求めていきましょう。(M)

2022年10月23日(日)ー使徒言行録15章40節

”パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。”

 パウロの第2回目の伝道の旅の始まりの時、誰を同行させるかということでパウロとバルナバの意見が対立し、結局、パウロとバルナバは別行動を取ることになりました。彼らを伝道の旅へと送り出すアンティオキアの教会の兄弟姉妹たちは心配したことと思います。それでも、主の恵みにゆだねて、パウロとバルナバを送り出しました。教会の伝道活動は、人間の努力や計画を超えて働く主の恵みにゆだねる祈りから始まります。(T)

2022年10月16日(日)ー使徒言行録15章31節

”彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。”

 エルサレム教会における会議で、教会は異邦人伝道を承認する決議をしました。そのことを伝えるために、エルサレム教会はパウロたちを派遣し、彼らにその決議を記した手紙を託しました。会議は決議することが大事なことです。しかし、その決議が実行されなければ意味がありません。その手紙に書かれていたことと、エルサレム教会から派遣された者たちの話しは励ましに満ちており、アンティオキアの教会の人々は大いに喜びました。(T)

2022年10月2日(日)ールカによる福音書11章9節

”・・・求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。・・・」”

 祈りというのは、たとえむずかしい不可能だと思える事柄であっても前向きにチャレンジして求めることなのだと、ここを読んで教えられます。

 神さまが真実な方であるので、信頼して求める、探す、門をたたく、この姿勢が必要なのだと思います。つまり、祈り、行動をおこし、その問題に触れて戦うことです。そこで私たちは学び、訓練を受け、神さまにしたがうことができるようになるという経験をします。そうすると、神さまの栄光があらわれ、私たちは人々に神さまの愛を流すことができるでしょう。(M)

2022年9月25日(日)ー使徒言行録14章27節

”神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。”

 パウロとバルナバは初めての伝道の旅を終えてアンティオキアに帰り、教会の人々に報告をしました。その旅において、パウロとバルナバはユダヤ人たちから激しく攻撃されました。パウロは石を投げつけられ、死にかけたこともありました。パウロたちは、そのことも「神が自分たちと共にいて行われた」ことと話したのだと思います。それは、どのような困難も福音を告げ知らせることを押しとどめることはできないことを証ししています。(T)

2022年9月18日(日)ー使徒言行録14章15節

”バルナバとパウロは・・・叫んで言った。「・・・あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。・・・」”

 パウロが生まれつき足の不自由な男の人を立ち上がらせたのを見て、人々は、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言い、バルナバとパウロにいけにえを献げようとしました。バルナバとパウロは人々に向かって、自分たちも同じ人間であること、そして、神さま以外のむなしいもの(=偶像)を頼りにするのではなく、まことの生ける神に立ち帰るように教えました。この世のむなしいものに頼るのではなく、天地万物を造り、私たちをお造りになって、豊かな恵みを与えてくださっているまことの神さまを信じ、日々、主の御名をほめたたえて歩みましょう。(T)

2022年9月11日(日)ーヘブライ人への手紙12章2節

”信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。”

 聖書には、天に召された信仰者たちは信仰の証人であると書かれています。キリスト教信仰における信仰の証人とは、生前、何かすばらしい業績を残した人であるとか、社会に貢献した人ということではなく、その生涯において、時に困難に直面し、暗闇の中を歩くようなことがあったり、悲しみに打ちひしがれたり、悩み迷うようなことがあったりしても、それでも神さまのひとり子なる主イエス・キリストを見つめて歩き続けた人ということです。その信仰者たちは皆、主イエスが十字架におかかりになり、私たちの罪を担い、私たちの身代わりとなって死んでくださったことを知ると共に、そこに主イエスの深い愛を見い出し、生涯、主イエスを見つめて生き抜きました。私たちもそのような信仰の証人に続いて歩んでまいりましょう。

                                                       (T)    

2022年9月4日(日)ールカによる福音書18章22節

”イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。”

 エリクソンという心理学者が、『ライフサイクルその完結』という本の中で、「人と世界と関わっていくこと、命そのものと関わっていくということが私たちの生きるっていうことであり、この私そのものを形作っていく中で一番大切なことなのだ」と言っています。そして彼は、老年期になった時に一番必要なものは「信仰」と。そして幼児期にとって一番大切なことが「遊び」であることと比較して類似のものだと言いました。子どもが遊ぶように、私たちも信仰をもってチャレンジしていくことができます。私たちの現実と未来の中にはいり込んで、私たちの心の事件として意味を持ってくるような、そのような冒険をしながら、心の旅ー人生を歩んでいきたいものです。(M)

2022年8月28日(日)ーイザヤ書2章3節

”主の光の中を歩もう”

 天地創造のみわざにおける、神さまの最初のお言葉は、「光あれ」でした(創世記1章3節)。この世界と私たち自身の内には罪の闇があり、私たちはしばしばその闇から脱け出すことができない悩みと苦しみの日々を過ごします。しかし、この世界と私たち人間存在の根底には神さまの光が照らされています。そのことを、神さまはイエス・キリストによって示されました。キリストはすべての人を照らすまことの光としてこの世に来られました。さらに、聖書には、神さまの国においては神さまの栄光が輝いていると証しされています(ヨハネの黙示録21章23節)。この世界に神さまの栄光が 輝きわたる日の到来を待ち望みつつ、神さまの光の中を歩んでまいりましょう。(T)

2022年8月21日(日)ーローマの信徒への手紙14章19節

”平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。”

 どのような集団も、「平和」であることと、「互いの向上に役立つこと」を願っているものです。けれども、その「平和」が、全体からすればある一部の集団内の平和を守ろうとするものであったり、その集団内で「互いの向上に役立つこと」を守ろうとすることに向かう時、急速に、きわめて身勝手で独善的な集団になってしまうことがあると思います。平和を追い求めることの根底にあることは、人と人とが共に生きる道を踏み外さないことです。主イエス・キリストは、ご自分のご生涯と十字架の死をもってその道を示されました。平和の主イエス・キリストに信頼して歩んでまいりましょう。「神の国は・・・聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(17節)。(T)

2022年8月14日(日)ーエフェソの信徒への手紙2章22節

”キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。”

 聖書には、キリスト者個人だけではなく、教会や社会もキリストを土台として共に建てられることが記されています。私たちはしばしば、隣人と共に在ること、共に生きること、共に働くことにおいて苦痛を覚え、困難を覚えます。その問題の根本にあるのが私たち自身の罪の問題です。主イエス・キリストは、十字架の死によって私たちを神さまと和解させ、さらに私たちの間にある敵意を滅ぼされました。そのキリストの救いにくり返し立ち帰り、キリストの救いを平和の基(もとい)として共に歩んで行きましょう。(Т)

2022年8月7日(日)ーフィリピの信徒への手紙2章6節

”キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして・・・”

 平和について考え、悩み、決意し、実行し、それが挫折し、そしてまた立ち上がり、育み、紡いできた人類の英知が今の私たちの世界を形成しています。放っておいては平和は実現しないのです。キリスト者はキリストの平和にあこがれます。キリストは決して誰にも侵されてはならない神聖なものであるご自分の命と権利を守らないで、私たちに分け与えてくださいました。分かち合われた神という姿を、私たちも共に分かち合いたいのです。そして、私が罪人の頭(かしら)であるにもかかわらず、キリストの十字架によって赦されているわけですから、私も赦し、苦しみ、厳しい中にあっても信仰、希望、愛をもって、もう一回立ち上がって、平和を紡ぎ直したいのです。(M)

2022年7月31日(日)ールカによる福音書17章15節

”その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻ってきた。”

 主イエスによって病気を癒された人は、「大声で神を賛美しながら戻って」来ました。彼は、自分が癒されたことを大いに喜びました。けれどもそれだけではなく、自分が神さまの子どもとして受け入れられ、愛されていることの喜びにあふれていたのだと思います。そして、主イエス・キリストに心から感謝をするために戻ってきました。私たちがキリスト者とされているということは、私たちが神さまの子どもとされたということであり、神さまのお守りとお導きのもとに、日々、感謝と喜びをもって歩む者とされたということです。その喜びを歌声にして神さまを賛美いたしましょう。(T)

2022年7月24日(日)ー使徒言行録14章3節

”二人は長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。”

 パウロとバルナバの話を聞いて大勢の人々が信仰に入りました。しかし、信じようとしないユダヤ人たちもおり、結果的に、「町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。」とあります(4節)。これは、使徒たちが意図的に分裂をもたらしたということではなく、福音の言葉を聞いた人々の側で、それを受け入れるか受け入れないかで分裂が起こったということでした。主イエス・キリストは、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカによる福音書12章51節)と言われたことを思い起こします。キリスト教信仰に生きるとは、「十字架のキリストこそまことの救い主」との信仰の告白に生きることです。それは、自分の生き方を手直ししたり軌道修正したりするということではなく、主なる神さまを頼みとする生き方に変わることです。(T)

2022年7月17日(日)ー使徒言行録13章43節

”二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。”

 パウロとバルナバが説教を終えて会堂を出る時、多くのユダヤ人たちが二人について来ました。パウロが語る福音の言葉をもっと聞きたいと思ったのです。パウロにしても、まだまだ語りたいと思っていたに違いありません。福音のメッセージは常に新しいものです。その新しさとは、まだ聞いたことのない聖書の解き明かしを聞くという新しさもありますが、自分の思いや周囲の環境が変化しているために、以前聞いたメッセージであっても、その時とはまったく違った、新鮮なメッセージとして心に響くこともあります。神の恵みの下に生き続けるとは、福音を聞き続けることです。(T)

2022年7月10日(日)ー使徒言行録13章30節

"パウロは・・・言った。「・・・しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。・・・」”

 パウロはユダヤ人たちの会堂で、出エジプトの出来事から語り始めて、ついに主イエスキリストを宣べ伝えました。その内容は、主イエスが教えられたことや奇跡を行われたことではなく、主の十字架の死と、死者の中からの復活ということでした。主イエスが十字架で死なれたという出来事の中に、人間の罪の現実と、その罪を贖う主イエスの救いのみわざが明らかにされているからです。そして、十字架につけられた主イエスが復活されたことこそは、神さまがこの世を支配する罪と死の力から私たちを救い出してくださったことを証ししているからです。暗い闇の中を歩んでいるような日々が続きますが、この神さまの救いのみわざを信じ、主に従ってまいりましょう。(T)

2022年7月3日(日)-ルカによる福音書16章8節

”主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。”

 私たちの想像を超えている神さまの愛の姿を教えてくださっています。無駄遣いをした時には怒った主人は、友だちをつくるために書類を書き換え、売り上げを減らした時には、ほめてくださいました。「会計報告を出しなさい」と言われるのは私たちです。神さまが私たちに願っておられることは、誰一人滅びないで永遠の命を受けることです。そのためなら、神さまは損をされることをいとわれません。私たちの命も身体もすべては神さまからあずかっているものです。それらを用いて、分かち合って、許しあって友だちをつくろう。そのために今わたしにできることを考え、悩み、決意し、実行しよう。教会は、キリスト者は、キリストの姿を模範にし、その姿に倣う者です。(M)

2022年6月19日(日)ー使徒言行録13章23節

”神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。”

 ユダヤ人の会堂でパウロは、神さまが、エジプトの地に住んでいたイスラエルの民を導き出された出エジプトの出来事から語り始めました。出エジプトはイスラエルの民の決断や団結によってなされたのではなく、神さまがイスラエルの民を選び、導かれたことによって実現した神さまのお働きでした。それからパウロはダビデ王へと一気に進み、「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださった」(使徒言行録13章23節)と語りました。パウロは、主イエスこそが神の子であり、神さまが私たちに与えられた救い主であることを宣べ伝えたのです(同9章20節、22節)。それは、「先祖の律法について厳しい教育を受け・・・熱心に神に仕えて」(同22章3節)いたパウロ自身が、神さまに選ばれ、導き出されたことの証しでもありました。(T)

2022年6月12日(日)ー使徒言行録13章9節

”パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。”

 使徒言行録(口語訳聖書では「使徒行伝」)は「聖霊行伝」とも呼ばれます。使徒言行録13章で、聖霊なる神さまはアンティオキアの教会に、世界に福音を宣べ伝えるご計画を告げ(2節)、バルナバとサウロを福音宣教に送り出しました(4節)。そして、パウロは聖霊に満たされて(9節)福音を宣べ伝えました。毎日、何かしら満たされない思いで過ごしている人が多くいます。私たちは聖霊に満たされることによって、生き生きとした充実した日々を与えられます。「不心、傲」(注意三「マン」!)の毎日ではなく、神さまのみ言葉を聞き、「足、円、聖霊充」で意欲満々の日々を過ごしましょう。(T)

2022年6月5日(日)ーイザヤ書11章5節

”エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その株からひとつの若枝が育ち。”

 私たちは互いを喜び、祝福し、ある時には励まし、叱咤する主にある友として共に旅をする仲間です。その私たちの心の中に今日新しい命と希望が宿り、聖餐の力が臨み、私の人生、私の家族の人生、周りの人々の人生を潤していくことができるように。そのために自分を不自由にしているもの、束縛しているものから解放されて、神さまと私と隣人を愛する者へと選ばれ、召されています。私にしかできないこと、私たちにしかできないことを行い、救いを必要としている人、悲しんでいる人に神さまの愛と祈りのことばを分かち合うために、共に神さまの和解と救いの中を歩んでまいりましょう。(M)

2022年5月29日(日)-コリントの信徒への手紙1章11節

”あなたがたも祈りで援助してください。”

 私たちはこの地上に派遣されている特派員と言えます。「神さま、この家庭の現実はこうです。神さま、この職場の現実はこうです。神さま、ここにあなたの助けを必要としている人がいます。神さま、どうかこの状況をみ心にとめてください」。私たちは遣わされて行った所で祈りの声をあげ、それを通して神さまが行動してくださるのです。私たちは主イエスの弟子です。遣わされていく中で、私たちは望みを、使命を慰めを持ちます。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイによる福音書10章16節)。世界が再び復活の道へと、平和の道へと歩んで行くために、主イエスの愛と聖霊がすべての人に注がれますように祈りを合わせましょう。(M)

2022年5月22日(日)-使徒言行録12章21節~23節

”ヘロデが・・・演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。”

 ヘロデ王はペトロを殺そうとして捕え、牢に入れましたが、ペトロは天使の導きによって牢から脱け出し、死を免れました。一方ヘロデ王はいよいよ自分の勢力を伸ばしているように見えましたが、突然にして死を迎えました。使徒言行録には、それは、「神に栄光を帰さなかったから」と記されています。人間ではなく神さまこそがほめたたえられるべきお方です。困難の中にあってこそ、「神に栄光、地に平和」と祈りましょう。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」(主の祈り)と祈りを合わせましょう。(T)

2022年5月15日(日)-使徒言行録12章11節

”ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして・・・わたしを救い出してくださったのだ。」”

 ヘロデ王は主イエスの弟子のヤコブを剣で殺しました。そのことがユダヤ人たちに喜ばれるのを見て、ヘロデ王はペトロを捕らえ、牢に入れ、厳重に監視させました。しかし、その牢の中に「主の天使」が現われ、ペトロを牢の外へと導き出しました。天使が離れ去った時、ペトロは我に返って、「今、初めて本当のことが分かった。」と言いました。ペトロは、ヤコブを剣で殺し、ペトロを捕らえて牢に入れたヘロデ王がこの世の支配者なのではなく、ヤコブの殉教も、ペトロの救出も、神さまが深いみこころの内にすべてを導いておられること、その神さまが世界の主であられ、ヤコブもペトロもそのことの証人として用いておられることが分かったのです。(T)

2022年5月8日(日)-詩編36編8節b

”あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ”

 ドロテー・ゼレが、「ニカラグアのための祈り」を残しています。「ニカラグアの国に大きな覆いが広がり、爆撃機から見つけられませんように 放火殺戮者たちが侵入しませんように、死者の大統領がこの国を忘れますように この国に大きな覆いが広がり子どもたちが学校に通えますように 年配の女性たちがコーヒーを収穫し、薬を入手できますように そして誰もが忘れられませんように」。そして、この大きな覆いは、聖母マリアの庇護(ひご)のマント、聖フランチェスコの農民服などの布で縫い合わされている。「多くの優しさを吸い込み 様々な望みが織り込まれ」ている大きな覆いは祈りとなり、愛することが神を言い表す動詞となり、貧しい人々の希望が守られますようにと。私たちのウクライナのための祈りと響き合います。(M)

2022年5月1日(日)ーイザヤ書26章12節

”主よ、平和をわたしたちにお授けください。わたしたちのすべての業を成し遂げてくださるのはあなたです。”

 世界では今も、「平和を回復するために」とか、「正義を実現するために」といった名目で争いや戦争が起こっています。平和を願い、平和を実現しようとして戦争へと突き進んでしまいます。皆それぞれに自分の正義(正しさ)に固執し、自分が思い描く平和を実現しようとするからです。私たちは、このような争いや戦争に陥ってしまう人間の愚かさの根底に、私たちの罪があることを知らされています。それゆえ私たちは神さまに、「平和を私たちにお授けください」と祈ります。その祈りに応えて神さまは、主イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪の赦しと贖いのみ業を成し遂げてくださいました。神さまの平和の到来を祈りつつ、平和を平和的に実現する者として用いられてまいりたいと願います。(T)

2022年4月24日(日)-ヨハネの黙示録7章17節

”神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。”

 主イエスの復活はどんな暗さも明るさに変える力を持っています。主イエスが罪をあがない、死に勝利されたことはどれほど大きな恵みであり、慰めでしょうか。どんな不条理な死も受け止めていてくださり、決して忘れられたり、打ち捨てられたりする命はないのです。涙を喜びに変えることがおできになる方が私たちの神なのですから、苦しんで、悲しんで、戦っている私たちの日常は、確かに喜びへ勝利へと変えられるしるしとなります。私たちは永遠の命を約束されている者として、神さまが私たちに与えてくださった道を迷うことなく進み、救いを必要としている人、悲しんでいる人に復活の喜びを分かち合っていくことができますようにと祈ります。(M)

2022年4月17日(日)-マルコによる福音書16章6節

”・・・あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。・・・」”

 主イエス・キリストは死から復活されました。主は、墓の中の沈黙の死者とではなく、主を賛美礼拝する私たちと共におられます。私たちは主の復活を記念する主の日の礼拝において、主の復活の命に生きるのです。(T)

2022年4月3日(日)-マルコによる福音書15章34節

”「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」”

 戦争や紛争、差別や貧困が原因の不条理な死、誰も助けてくれない絶望の死をイエス・キリストは体験し、味わわれただけではなく、絶望の中で、なおその神に「なぜ」と問うていく、その架け橋をかけられました。それゆえにイエス・キリストの十字架の死は、多くの人々の絶望の死を担う特別な死として、罪の暗闇に新しい扉を開く死として、人間には不可能な神さまの涙と愛を表す死として私たちに覚えられています。今、受難の中にある一人ひとりの上に神さまの涙と愛が注がれていることを信じて、「アルデバラン」(おうし座のアルファ星の固有名。アラビア語で「後に続くもの」の意味)として主のあとに従って歩み、絶望の現実の中に繰り返し、愛と平和の架け橋をかけていく者になりましょう。(M)

2022年3月27日(日)-マルコによる福音書3章5節

”イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。”

 心がかたくなになってしまうと、自分の正しさばかり大切にして、人が本当に痛んでいる時に自分も痛いと思えなくなってしまいます。礼拝堂にいる片手の萎えた人に対して寄り添わないばかりか、主イエスを訴えて殺そうと思い始める。本当に神さまを愛することができなくなってしまう。主イエスは片手の萎えた人に、「あなたこそ、礼拝のまん中にいるべき人だ」と言って、「手を伸ばしなさい」と言って癒されました。心がかたくなになっている人にも、同様に、「私を信じなさい。そして従いなさい」と招いていてくださっています。その主の言葉にお従いすることができますように。主の豊かな恵みに信頼しましょう。(M)

2022年3月20日(日)ー使徒言行録11章18節

”人々は静まり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美した。”

 主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた異邦人に命が与えられました。その生き方が変わったということではなく、「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)との信仰に生きる者とされたということです。主は十字架の上で命を失ったのではなく、私たちにその命を与えられたのです。(T)

2022年3月13日(日)ー使徒言行録10章34節~37節

"ペトロは・・・言った。「神がイエス・キリストによって・・・この方こそ、すべての人の主です・・・平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を・・・ご存じでしょう。・・・」”

 「平和を告げ知らせて」(36節)は、「平和の福音を宣べ伝えて」(口語訳)という意味です。神さまが、主イエス・キリストによって与えてくださったみ言葉は、世界のすべての人に対する平和の福音です。そして、神さまが送ってくださったみ言葉は、主イエス・キリストの十字架の死による救いの出来事となりました。み言葉は、私たちがそれを聞いて理解することでその役割を終えるのではなく、私たちの内にあって働き、私たちの日々の歩みにおいて、神さまの栄光を現わす出来事を生み出します。(T)

2022年3月6日(日)ー使徒言行録10章33節

”コルネリウスが言った。「・・・今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。”

 主イエスの弟子であるペトロも、異邦人でローマの兵士であるコルネリウスも、等しく神さまに受け入れられ、愛されています。世界には、人が人を差別したり、他者を力で支配しようとする人間の罪の現実があります。さらに、コロナ禍による人と人とのつながりの分断もあります。神さまの呼びかけに応え、神さまのみ前に集い、共に主のみ言葉を聞きましょう。(T)

2022年2月27日(日)-マタイによる福音書8章17節

”「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 マタイは、このイザヤ書の言葉が、今、ここに実を結んでいると、感謝と喜びと愛を込めて書き記しました。神さまはご自身の中に人としての営み(ハンディを持ち、病に苦しみ、生活能力のない人間存在のすべて)を受け入れられ、身に負われ、神さまの永遠の命を分かち与えることによっていやされます。主イエスの苦難がこの私たちの世界を支えているように、私たちの負う不当な、納得できない苦難は、神さまのみわざに参与していることのしるしです。私たちの苦難は、もはや災難や不運ではなく、神さまから与えられた課題であり、より深い祝福の世界に入っていくために、また永遠の命の豊かさと、神の子としての喜びと自由へと導きたもうために与えられたものです。自分が負うべき荷に取り組む時、キリストは共におられ、共に泣き、私たちを共に笑うように導かれるでしょう。(M)

2022年2月20日(日)-使徒言行録10章15節

”すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」”

 異邦人であるコルネリウスに対するペトロの伝道の様子が書かれています。ペトロは自分から異邦人伝道へと歩みを進めたわけではありませんでした。むしろユダヤ人として、異邦人との関わりについては距離を保っておりました。その一つが「食物規定」と呼ばれるものです。それは、異邦人との交流を拒む意味で、食べてはならない食べ物を定めているものです(レビ記11章ほか)。ところが今、神さまは、異邦人もキリストの福音の恵みに与ることを示しておられるのです。この神さまのみ声によってペトロは変えられました。「伝道は、福音を聞く者が神に従うだけでなく、むしろ、福音を伝える者の方に、福音に従おうとするより大きな闘いがあるものである。」(竹森満佐一)。(T)

2022年2月13日(日)-使徒言行録9章40節

ペトロが・・・「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。”

 ペトロの「起きなさい」との呼びかけに、アイネアは病床から、タビタは死の床から起き上がりました。ペトロが起き上がらせたのではありません。アイネアとタビタが、ペトロの呼びかけに応え、主イエス・キリストの癒しと力をいただいて自ら起き上がったのです。「信仰の継承」とのことが言われます。それは例えば、親が信じる信仰を子どもに無理強いすることではありません。子ども自らがキリストを信じる信仰(=教会への信仰)へと導かれ、自ら信じ(起き上がり)、信仰の道を歩むことです。家族をはじめ愛する者がキリストへと導かれ、キリストとの交わりをもつ時と場を備えてまいりましょう。(T)

2022年2月6日(日)-使徒言行録9章31節

”こうして、教会は・・・基礎が固まって発展し・・・”

 「こうして」とは、ステファノが逮捕され、殉教の死を遂げた出来事(使徒言行録6章8節以下)からの内容のことです。そこには、迫害のために散らされたキリスト者たちが、散らされた地で福音を告げ知らせたこと、そして、教会の迫害者であったサウロが回心するという出来事が書かれていました。これらのことは、教会が、困難の中を歩まなければならなかったけれども、神さまに守られて歩んだということを伝えていると言うよりは、困難に出遭ったことも含めて神さまに導かれて歩んだこと、そして、そのことによって教会が形成されて行ったことを伝えています。こうして、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒言行録20章28節)の基礎が固まったのです。(T)

2022年1月30日(日)ー使徒言行録9章15節

”主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。・・・」”

 復活の主イエス・キリストは、キリスト者たちを迫害していたサウロ(=パウロ)を招き、サウロは、「わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と言われました。サウロは回心しました。その後のサウロの偉大な働きを見る時、これはサウロ個人の歩みの大転換であったばかりでなく、歴史の大転換であったことを思います。この時、アナニアというキリスト者が、サウロに手を置いて祈るために用いられ、彼はサウロに洗礼を授けました。これは、サウロが回心したことによってなされた働きが、サウロ個人の働きとしてなされたものではなく、教会の働きであることを示しています。福音の宣教者とされたサウロは、キリストの体なる教会を建て上げる者とされました。(T)

2022年1月23日(日)ー使徒言行録8章39節

”宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。”

 預言者イザヤの予言を朗読していたエチオピアの高官は、「苦難の僕」(イザヤ書53章)の箇所に目をとめ、フィリポに、「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか」と問いました(34節)。フィリポは高官に、「聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせ」ました(35節)。すると高官は、他者のために苦しみを受けられた主イエスの深い愛を知り、また、その愛が自分自身にも注がれていることを知って、フィリポから洗礼を受けました(38節)。この後、フィリポは別の地に遣わされ、姿を消しますが、高官の心はそれまでとはまったく違っていました。自分の働きの場へと帰る道を行く高官は、「喜びにあふれて旅を続けた」のです。(T)

2022年1月16日(日)-使徒言行録8章22節

”ペトロは言った。・・・「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。・・・」”

 迫害のためにエルサレムから散らされ、サマリアの町に行ったフィリポは、魔術を使って人々を驚かせ、偉大な人物と自称していたシモンに出会いました。福音宣教の広がりの中で、キリスト者たちは、たびたび魔術師と出会いました(使徒言行録13章6節以下、19章19節ほか)。人々は、魔術師のように、悪霊を追い出したりする不思議な力を持っている者を求めていました。それは、病気や不幸な出来事に出遭い苦しむ中で、人々がそれらの苦しみから解放されることを求めていたからであると思います。主イエス・キリストの福音は、魔術を求める者も、また、魔術を使う者をも、本当の自由へと導きます。(T)

2022年1月9日(日)ーミカ書2章12節

”わたしは彼らを・・・牧場に導いてひとつにする。”

 ミカはアッスリアによる占領を「あなたの罪のゆえに起こる」と言いますが、イスラエルはなんとその言葉を受け入れ、逃げないで留まり続けました。神さまの「あなたに対する愛のゆえに、あなたを緑の牧場にまことの羊飼いをもって導くためにこのできごとは起きたのだ」との語りを聞いたからです。私たちも教会歴の中を時を意識しながら、起きてくる一つひとつのできごとをキリストの支配の中で起こることとして受け止めて、まことの羊飼いの声を聞きつつその愛の中を歩んでまいりたいと願います。(M)

2022年1月2日(日)-使徒言行録8章4節

”散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。”

 「散って行った」とありますが、これは「散らされて行った」との受け身の言葉です。自分たちで散って行ったのではなく、否応なしに散らされたのです。けれども、その散らされた人々が、「福音を告げ知らせながら巡り歩いた」のです。福音の伝道は、神さまが私たちを用いて進められる神さまのお働きです。新しい年の歩みが始まりました。なお続くコロナ禍の中で、神さまに用いていただき、散らされて行った先で福音を告げ知らせてまいりましょう。(T)

2021年12月26日(日)-マタイによる福音書25章1節

”ともし火を持って花婿を迎えに出て行く。”

 今の時代は夜、闇が深まっていくのを感じながら生きています。聖書はこの夜に花婿(イエス・キリスト)が来て、婚宴(神の国)が始まると告げています。予備の油とは「イエス・キリストが弁護人として、熱情の上着をまとい、報復を衣とし、救いの兜(かぶと)をかぶって来られる。その時に神さまの国を完成させてくださる。」ことへの信仰です。たとえ私たちが何も持っていなくても、解き放つことのできない課題を負っていても、「いちばん最後にいちばん良いもの(主)が来る」と信じて生きていたら、ともし火を持って前を向きながら歩いていたら、その姿勢はきっと人々に希望や励ましを与えるのではないでしょうか。(M)

2021年12月19日(日)-サムエル記上2章1節、9節

”ハンナは祈って言った。・・・

”「主の慈しみに生きる者の足を主は守り

 主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる。

 人は力によって勝つのではない。」

 サムエルの母ハンナは主の「慈しみ」を祈り、主イエスの母マリアは主の「憐み」を歌いました(ルカによる福音書1章54節)。ハンナもマリアも、大きな苦しみと嘆きをもって歩む経験をしました。その二人が証ししていることは、神さまの慈しみと憐みは、苦しみや困難の中にある者、小さく弱い者へとまっすぐにそそがれているということです。生まれたばかりの主イエスが貧しい飼い葉桶の中に寝かされたとの出来事に、その神さまの深い愛が現わされています。クリスマスの恵みと喜びが地に住むすべての人にありますように!(T)

2021年12月5日(日)-エレミヤ書36章1節,3節

”次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。「・・・ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」”

 預言者エレミヤを通して、神さまはユダの国に対する裁きを語られました。それはユダの国の民を断罪するためではなく、民が悪の道から離れ、神さまのもとに立ち帰ることを求めるものでした。しかし、その神さまのみ言葉が記された巻物を、ユダの王ヨヤキムはナイフで切り裂いて燃やしてしまいました(23節)。まさにこのように、「言葉(ことば)(=イエス・キリスト)」は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネによる福音書1章11節)のです。自分自身の罪の悔い改めの祈りをもってクリスマスを迎えましょう。(T)

2021年11月28日(日)-イザヤ書51章4節

”わたしは瞬く間にわたしの裁きをすべての人の光として輝かす。”

 神さまは、この地を正しく裁かれます。その裁きは、人々の悪しきさまを断罪するのではなく、暗闇の中を歩んでいる民に、正義と救いをもたらすのです。神さまの裁きは、人々を罪の重荷の下に閉じ込めようとするのではなく、罪にとらわれている人々に本当の自由を与えるものです。ですから、その裁きは、この世のすべての人を照らす光として輝くのです。クリスマスは、この神さまの救いとご栄光が、主イエス・キリストによって現わされた出来事です。「その光(=イエス・キリスト)は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネによる福音書1章9節) (T)

2021年11月14日(日)-マタイによる福音書13章57節

”このように人々はイエスにつまずいた。”

 せちがらい世の中です。人を家柄や経歴、ジェンダーという外側で判断し、神さまに喜ばれるへりくだった柔和な内実は見ようとはしません。そんな私たちはもし今日ナザレのイエスさまが訪れてくださったとしても、はたして主イエスとして発見し、歓迎し、受け入れることはできるのでしょうか。身近にいた家族さえも主イエスに見られる聖さを分別できませんでした。そうならないために私の内側を主イエスにある人柄、弱さにあらわれる神さまの力に気づくことができるように、私たちは何よりも十字架において惜しみなく与えられた主にあるその宝を愛し、追い求めていきたいと思います。(M)

2021年11月7日(日)-使徒言行録7章34節

”「・・・主はこう仰せになりました。『・・・私は・・・彼らを救うために降ってきた。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』・・・」”

 ステファノはモーセの生涯を語りました。神さまがモーセに「時(とき)」を備え、モーセを用い、その歩みを導いてくださったことを証ししたのです。神さまはイスラエルの民の不幸を見、その嘆きを聞かれ、「彼らを救うために降って来た」と言われました。この世の苦しみや悲しみのただ中に神さまが降られ、モーセを立て、共におられ、イスラエルの民をその苦しみと嘆きから救われたのです。モーセの不思議な生い立ち、同胞のイスラエル人から受け入れられなかったこと、そして、時を経て主によってエジプトに遣わされたこと、これらすべてが神さまのお導きにより進められました。ステファノ自身もまた、神さまのお導きによって証ししています。(T)

2021年10月24日(日)-ローマの信徒への手紙9章16節

〝従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐みによるものです。”

 イサクやヤコブが生まれる前から神さまに選ばれていたのは、自由な選びによる神の計画が、人の行ないによらず、お召しになる方によって進められるためでした。ヤコブは失敗し、挫折し、自分のズルさや罪悪によってつまずきますが、神さまが愛し味方されることで、すべてが命につながるプロセスになっていきました。また、ファラオという迫害者、敵対者をも神さまは神の民のために立てられていると聖書は言います。選ばれた私たちにとりまして、ファラオという試練も祝福の中におかれている、命の道なんだということを覚えていきたいと思います。(M)

2021年9月26日(日)-ルカによる福音書8章25節

”イエスは『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた。”

 私たちは時に、「自分の今いる所に何も見い出せない。こんな自分はうその自分だ、きっとこの世に本当の自分は存在しているのだ。」と常に満たされない心を持ちながら呪われているように生きてしまっています。よくよく信仰の目を持って見ると、私たちの足元には「道であり、命であり、真理である」イエスさまが眠っておられるのです。人生の荒波に沈みそうなこの船の中に希望と命はすでに宿っておりました。私たちの人生の旅は、このお宝を乗せた船で冒険の旅に出かけていくことです。「イエスさま、起きてください。もうすぐ上陸ですよ。一緒に冒険の旅に出てください。」と言える祝福をここで絶えず受け取ってまいりましょう。(M)

2021年9月19日(日)-使徒言行録4章32節

”信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分の者だと言う者はなく、すべてを共有していた。”

 初代の教会に集う人々は、「持ち物を自分のものだと言う者はなく」、すべては神さまから与えられたものであり、「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。」(詩編24編1節)との信仰に生き、生活をしました。私たちは、神さまから与えられたものを「私(わたくし)する」(自分のもののようにする)ようなことが無いでしょうか?あるいは、他の人々に自分を良く見せるために利用するというようなことはないでしょうか?神さまの御前(みまえ)に真実に歩んでまいりましょう。(T)

2021年9月12日(日)-申命記34章1節

”モーセは・・・・・ピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。”

 モーセは生涯の終わりにピスガの山頂に登り、神さまが与えてくださると約束された地を見渡しました。モーセは、「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ」(ヘブライ人への手紙11章13節)たことでしょう。私たちの信仰の諸先輩も神さまの約束をはるかに見て、喜びの声を上げて天の故郷へと帰って行ったことを思います。私たちもまた、はるかに神さまの約束を見つつ、天の故郷を目指して歩んでまいりましょう。(T)

2021年9月5日(日)-使徒言行録4章31節

”祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。”

 ペンテコステ(聖霊降臨)をもって始まった教会の活動は、主イエスをメシア(=救い主)と告白する者を多数生み出しましたが、その一方で、あざけり、拘束(牢に入れられる)、尋問、脅しといった逆風を引き起こしました。けれども、教会はそれらの困難に直面する中で、「心を一つにし、神に向かって声をあげて」(24節)祈りました。神さまはその祈りに応えて、逆風を跳ね返す聖なる風(=聖霊)を送ってくださいました。「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした(31節)のです。困難に直面することによって、神さまに信頼し、そのお導きを祈りつつ、神さまのお働きがこの地に実現するために用いられ、その歩みを続ける教会として成長して行ったのです。(T)

2021年8月29日(日)-コリントの信徒への手紙Ⅱ5章18節

”神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。”

 私たちキリスト者にとっては、神さまとの和解こそが平和を実現する土台です。私たちは、神さまの前で自らの罪を悔い改め、神さまによって罪が赦され、神さまの子どもとして世界の平和を祈り、隣人と共に平和を実現する歩みを進めて行くということです。この「和解」とは、神さまと私たちがお互いに歩み寄って仲直りするということではありません。神さまと私たちの間に主イエス・キリストがおられ、主が私たち罪人の身代わりとなられ、罪の裁きを受けてくださったことによってもたらされたものです。そのようにして私たちは、「和解の言葉を・・・ゆだねられ」(19節)、「キリストの使者の務め」(20節)を果たす者として立てられています。「わたしたちは・・・主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」(ローマの信徒への手紙5章1節)います。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」(エフェソの信徒への手紙2章14節) (T)

2021年8月22日(日)-マタイによる福音書7章25節

”「・・・雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。・・・」”

 人間が幸福に生きていく上で、最も大切なものは安定した愛着だと思います。愛着は人と人との絆を結ぶ能力であり、人格の土台の部分を形造っています。安定した愛着スタイルをもつことができた人は、対人関係においては深い信頼関係を築き、それを長年にわたって維持していくことで、大きな人生の果実を得ます。この私を本当に生かすために十字架で死んでくださった主イエス・キリストを信じて生きる時、生老病死という試練の中にあっても神さまに助けを求め、その中で育てられ、生き抜くことができます。どうか土台をすえて、民族、宗教、文化、様々な課題を越えて神さまが現そうとしておられるシャローム(平和)へ共に歩んで行くことができますように。(M)