2024年4月21日(日)ールカによる福音書24章36節

”イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。”

 主イエスのご復活により、主の十字架のお苦しみの意味と神さまの深いご計画が明らかに示されました。「わたしは求めた

美しい花束を しかし神さまは とげだらけのサボテンをくださった わたしは求めた 愛らしい蝶を しかし神さまはゾッとするような毛虫をくださった わたしは なげき 悲しみ 失望した しかし多くの日が過ぎ去ったあと、わたしは目を見張った サボテンが多くの花を開いて 美しく咲き乱れ 毛虫が愛らしい蝶となって 春風に舞い舞うのを すばらしい神さまの御計画」(高俊明)。(T)

2024年4月14日(日)ーヨハネによる福音書20章18節

”マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。”

 ボンヘッファーの言葉を紹介します。「神が成就し給うのは僕(しもべ)たちのあらゆる希望ではなく、神ご自身のあらゆる約束である。すなわち、神は、地上の主であられ、その教会を保たれ、僕たちに常に新しい信仰を送り給い、僕たちの耐えられる限度を越えた重荷を負わせ給わず、僕たちを神の臨在と助けとを喜ぶ者とならしめ、僕たちの祈りを聞き、僕たちを最善にして真っ直な道によってご自身へと導き給うのである。神はこのようなことを確かになし給うことによって、僕たちを通してご自身を讃美せしめたもう」(友人ベートゲにあてた手紙の一節) (M)

2024年3月31日(日)ールカによる福音書24章22節,23節

”二人は言った。「・・・婦人たちは朝早く墓へ行きましたが・・・天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。・・・」”

 主イエスが死から復活された日の午後、二人の主の弟子たちがエマオの村に向かって歩いていました。彼らは主イエスこそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。(ルカによる福音書24章21節)。しかし、主は十字架で死なれ、その望みは失せてしまいました。そして、週の初めの日の明け方早く、主のお体を納めた墓に行った女性たちが主のお体を見つけることができないでいる時、天の使いより、「(主イエスは)復活なさった」と告げられました(同6節)。弟子たちが抱いていた望みは失せました。けれども、主が死から復活されたことにより、人間が抱くあらゆる望みをはるかに超える永遠の命の望みが与えられました。主が死から復活されたゆえに、私たちはもはや失望することはあっても絶望することはありません。主の復活、ハレルヤ!(T)

2024年3月24日(日)ーマルコによる福音書15章31節

”イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。・・・」

 イエス・キリストの十字架の姿、イザヤ書53章が書いている苦難の僕の姿、弟子たちの足を洗われたあの奴隷の姿、それは、一部を断念し、他者のために死を一部引き受ける、そんな姿の中に「自分の命を失う者はそれを得る」(マルコによる福音書8章35節)というその意味を見出すことができます。不条理で理不尽な時代の中にあって、キリストの十字架を見上げながら「自分だけ」という世界から解放され、神さまに対して富を積み(ルカによる福音書12章21節)本当の命を見い出すことができますように、そして非戦が成立する世界を望み真の人間の連帯に生きることができますように祈ります。(M)

2024年3月17日(日)ールカによる福音書23章46節

”イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」”

 主イエス・キリストは、十字架の上で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫んで息を引き取られました。その主イエスの叫びが意味していることは、十字架上での死からその先は神さまの御手の導きにゆだねるということです。主は十字架の上で、本来は私たちが負うべき罪の報いを負われ、苦しみを受けられ、私たちが受けるべき罪の裁きである死を引き受けられました。そして、最後に主は、私たちに代わって、神さまのお導きに自らをゆだねる叫びを上げられました。主イエスは、「叫び声を聞き、その痛みを知った」(出エジプト記3章7節)神さまへの全き信頼の叫びを上げられたのです。(T)

2024年3月10日(日)ールカによる福音書22章61節

”主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「・・・あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。”

 主イエス・キリストとの関係を問われて、「わたしはあの人を知らない」と言ってしまったペトロを、主は振り向いて見つめられました。それは、ペトロの裏切りを非難したり、裁いたりする視線ではなく、ペトロの弱さと罪をすべて包み込む愛のまなざしであったことと思います。主はすでにペトロに、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言っておられました(ルカによる福音書22章32節)。この主のまなざしは、ペトロの強がりも弱さも包み込むと共に、ペトロの全生涯の歩みを包み込む愛のまなざしです。私たち一人ひとりも、また、生涯の歩みも、主のまなざしによって包み込まれています。(T)

2024年3月3日(日)ールカによる福音書13章32節,34節

”イエスは言われた。「・・・エルサレム、エルサレム・・・わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。・・・」”

 主イエス・キリストは神さまの招きに応えようとしないエルサレムの民の罪を嘆かれました。そして今、キリストは、かたくなな心で神さまのみこころに背いている私たちの深い罪を嘆いておられます。私たちは苦難に遭ったり、なかなか自分の思う通りに事が進まなかったりする時に嘆きます。それでは、いつも神さまへの信頼を失いそうになったり、神さまに背いてしまっている自分自身の罪のために嘆くことはあるでしょうか?信仰者に対して、「ひとよ、汝が罪の大いなるをなげき、悔いてなみだせよ。」(『讃美歌21』294。J.S.バッハ『マタイ受難曲』第一部最終曲)と告げられています。(T)

2024年2月25日(日)ーヨハネによる福音書8章44節

”イエスは言われた。「・・・あなたたちは、悪魔である父から出た者・・・」”

 私たちはいったいどこから救われたのか、いったいどういう状況の中から救われて悪魔の子ではないようにしていただいたのか、私たちが神の子としていただくために成し遂げてくださった救いを語っています。「私があなたの父、私があなたを救う神」という言葉を私たちの心の中に届けるために、神の御子イエス・キリストが来てくださって血を流してくださって、私たちの罪と闘ってくださって私たちを神の子としてその腕の中に抱きとめてくださいました。レントの期間神さまがこの私に求めておられるものは何だろうか、神さまが私たちに与えてくださったものは何だろうか。感謝をもって思い返して恵みを数えていく時としたいと思います。(M)

2024年2月18日(日)ールカによる福音書9章23節

”イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。・・・」”

 主イエスを「神からのメシヤ」と告白した弟子たちに対して、主はご自分の十字架の死と復活を予告されました。しかし、弟子たちはそのお言葉をどう受けとめたらよいのか分からなかったのだと思います。災害発生時に避難行動が遅れてしまう理由として、「正常性バイアス(偏見、先入観)」が働いていると言われます。自分がいかに危険な状態にあるのかが分かっていなくて、「自分は大丈夫」と思ってしまうことです。私たちは自らの罪に対して、「自分は大丈夫」、「これくらいは問題無い」と思っているのではないでしょうか。受難節は自分の罪としっかりと向き合い、神に立ち帰る時です。(T)

2024年2月11日(日)ー使徒言行録27章44節

”このようにして、全員が無事に上陸した。”

 暴風に見舞われ、二週間も漂流した船は、ようやく陸地に近づきました。この時、パウロの呼びかけにより、船に乗っていた一同は食事をし、上陸に備えました。船に例えられる私たちの教会は、今なお続くコロナ禍の中で、活動の自粛を余儀なくされております。しかし、教会は自粛することはあっても委縮してはなりません。船に乗っていた全員が無事に上陸したとあります。教会に連なる私たちは、共に神の国を目指して進み行きます。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」(ヨハネによ福音書3章16節)とのみ言葉を信じ、私たちも新たな信仰の歩みへと踏み出してまいりましょう。(T)

2024年2月4日(日)ー使徒言行録27章33節~34節

”パウロは一同に食事をするように勧めた。「・・・どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。・・・」”

 パウロたちを乗せて漂流していた船は陸地に近づきました。船が暗礁に乗り上げ、乗っている者たちと一緒に海に沈んでしまうのか、それとも、無事に上陸できるのかの瀬戸際でした。ここでパウロは、一同に食事をするように勧めました。それまで大切に取っておいた食べ物を食べようというのです。一同が生き延びるために食事をして元気を出そうということだけを言っているのではありません。それは、神さまが自分たちを必ず守り、生かし、導いてくださるとの神さまへの全き信頼の証しでありました。そして、パウロは、一同の前でパンを取り、神さまに感謝の祈りをささげて食べ始めました。(T)

2024年1月28日(日)ーゼファニヤ書3章17節b

”「・・・主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」”

 神さまはなぜ私たちを生んで、あらゆる恵みを与え続けておられるのでしょうか。それは「喜ばせたいから」、その人が生まれて来たことを本当に喜んで「生まれて来て良かった」、そう言うためなのです。私たちは喜ぶことで、そして人を喜ばせることで神さまに協力できます。クリスマスに私たちは、主イエスさまを通して神さまの贈る心の輝きを見ました。主イエスさまは、本当に辛い思いをしている人に寄り添って、「私はあなたが喜ぶことを願っている。あなたを永遠に喜ぶ者にしてあげたい」と願われます。この神さまの願いに協力する時にだけ私たちに真の喜びが生まれます。そういう喜びの秘密をみんなにもっと知ってほしいと思います。(M)

2024年1月14日(日)ー使徒言行録27章7~8節

”ところが、風に行く手を阻まれたので、・・・ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い「良い港」と呼ばれる所に着いた。”

 パウロたち一行を乗せた船はイタリアに向けて船出しました。けれども、途中で向かい風に悩まされ、クニドス港に近づいたところで風に行く手を阻まれて、ようやく「良い港」と呼ばれる所にたどり着いたのでした。パウロはそこで冬を越すことを提案しましたが、船に乗っていた人々は船長や船主の方を信用し、船出しました。その結果、船は暴風に襲われ、流されてしまうことになります。パウロの旅路はしばしば行く手を阻まれ、計画を変更しなければなりませんでした。しかし、神さまのみこころは前進していたのです。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19章21節)。(T)

2024年1月7日(日)ーマタイによる福音書1章23節

”「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。”

 主イエスの父となるヨセフは、婚約者のマリアが聖霊によって身ごもっていることを知り、悩んだ末、ひそかにマリアと縁を切ろうと決心しました。このことが表ざたになれが、律法の規定によりマリアの身に危険がおよぶと考えたからです。その時、主の天使が夢でヨセフに現われ、マリアを迎え入れなさいと告げました。そして、ヨセフは天使が告げた通りマリアを迎え入れました。ヨセフは自分の決心ではなく、神さまのみこころに聴き従う道を選んだのです。ヨセフの心の内には激しい葛藤があったことと思います。そのような中でヨセフは、「神は我々と共におられる」との神さまのお約束に信頼し、神さまのお導きにおゆだねしたのです。信仰に生きるとは、悩みや苦しみ、あるいは、困難の中にある時にこそ主のみこころに聴き従うということです。(T)

2023年12月24日(日)ーマタイによる福音書2章14節

”ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。”

 主イエスさまとマリヤとヨセフはなぜ長い間エジプトに避難しなければならなかったのか。イスラエルの民がそこで奴隷生活をしていたけれども、その国を脱出するためには小羊が血を流し、犠牲を払ってその血がぬられなければならなかった。このエピソードを主イエスさまは聞いて育たれたと思います。私たち弱い者を救うために神のみ子イエスはつかわされ、最後は十字架につかれたという清らかな愛が弱き私たちをも清らかな者としてその罪を赦してくださる。私たちの弱さが優しさを生み、愛をもたらせるように励ましてくださるのです。私たちは寄留者として避難民のように弱さを自覚し、苦難を受け入れたい。飢えて、渇いて、避難し、病気になり、牢におられる主イエスさま(マタイによる福音書25章)に出会い共感し、対話できるように。(M)

2023年12月17日(日)ーヨハネによる福音書1章14節

”言葉(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。”

 神さまの愛のみこころは、聖書のみ言葉によって伝えられています。そして、そのみ言葉は主イエス・キリストとなられて、私たちの世界に降って来られ、私たちの間に宿ってくださいました。これがクリスマスです。クリスマスは神さまの深い愛のみこころがこの世界に実現した出来事です。神さまのみこころは、神さまの恵みと真理がこの地に満ちることです。神さまはその尊いみわざ(=お働き)の実現のために、神さまは、神さまを信じる者を起こし、神さまのお働きのために用いてくださいます。私たちは、神さまの恵みをいただき、みこころが天において実現しておられるように、この地にも実現することを祈る者とされ、そのために用いられています。(T)

2023年12月3日(日)ーヨハネによる福音書1章29節,34節

”ヨハネは・・・言った。「見よ、世の扉を取り除く神の小羊だ。・・・

この方こそ神の子であると証ししたのである。」”

 洗礼者ヨハネは、主イエス・キリストを「世の罪を取り除く神の小羊」であり、「神の子」であると証ししました。これはヨハネによる福音書全体の証しです(ヨハネによる福音書20章31節「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」)。クリスマスの出来事は、神の子イエス・キリストがこの世界に降って来られ、十字架におかかりになって私たちの罪を取り除き、救ってくださったことを証ししています。(T)

2023年11月26日(日)ーマタイによる福音書13章45節~46節

”「また、天の国はつぎのようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」”

 天国は良い真珠ではなく、それを探し求めている存在だと主イエスさまはおっしゃっています。たとえあなたがさまよい歩く日が来たとしても、探し続ける人の存在がある限り、あなたは天国から離れないのだというのです。その天国を体現されたのが主イエスさまでした。主イエスさまは神さまの身分を捨てて僕の姿となられて私たちに近づき、見い出されて、私のことを「高価な一個の真珠」と喜んでくださいました。教会が、そして社会全体がお互いを探し求めるあり方にあこがれ、求めることができますように。(M)